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故井上芳邦氏を偲ぶ  2 偲ぶ貝島炭礦写真集  3 宮田慕情(歌) の3部構成




井上芳邦を偲ぶ



宮若市石炭記念館内で「貝島私学発祥の地」記念碑の
文字に色付けする井上氏(昭和52年頃)

(写真:井上邦彦家アルバム集から)

井上芳邦氏自分史「貝島炭礦への入魂人生」
井上芳邦氏作成   「貝島炭礦経営の沿革史




写真:S40頃 宮田地区合同メーデー(貝島本社前)
における議長席の故井上氏

(写真:「貝島炭礦の想い出」から)

制作依頼者
 井上 邦 彦
 井上 眞理子
 
 編集者
  夏秋  充
  藤渕 明宏


本ページ発信趣旨

 旧宮田町は、明治18年宮若市(当時宮田村)代の浦に創業した貝島炭礦(従業員7,000人余)を基幹産業をもとに昭和36年人口56,843人に達し(初代石炭記念館長井上芳邦氏作成館内パンフレットから)、当時市制施行を真剣に論議した日本一の大きな町であった。しかし貝島炭礦は、昭和51年8月5日に生命を終えた。それから30年、平成18年2月当初の人口は21,000人余、実に一つの町の人口に匹敵するほどの大流失・大移動がこの間にあった。
 振り返れば、明治18年から閉山までの約90年間、活力に満ち連帯感溢れた炭住生活があったのである。その基盤づくりに大きくつくしていた多くの人々がいた。その中の一人として、戦後、後期の貝島炭礦に、そして国の発展に挺身した坑夫・人々に、限りなく温かい手を伸べた故井上芳邦氏を偲び、ここに「貝島炭礦メモリー」ページを発信する。またこのことによって多くの貝島のみならず炭礦関係者と宮若市の今後の発展に僅かでもお役に立てばと思っている。
 故井上芳邦氏は、昭和21年貝島炭礦に入社後、坑内で働く傍ら、貝島炭礦労働組合副組合長、町議5期、その後宮田町(現宮若市)石炭記念館創設と昭和52年6月から当初代館長を全うされ、それと並行して筑豊炭礦遺跡研究会に所属し閉山した貝島炭礦や筑豊炭田の資料収集に奔走された。こうして大きな足跡を残され、平成2年3月14日永眠(享年74歳)されている。
 そのお人柄は、大きな体と柔和なお人柄、そして体中からほとばしる重厚な安定感、信頼感に溢れ、どの方からも慕われ愛される方であった。その井上氏没後も、その「井上芳邦」の名は多くの方々の心に刻まれていると思われる。
 実は、本ページを発信しようとした直接のきっかけは、貝島閉山30年、平成18年2月11日宮若市発足を受けて、平成17年10月頃、宮若市に在住している井上芳邦氏の長男井上邦彦氏及び長女まり子さんから、この機に実父が記した「貝島炭礦沿革史」及び「自分史『貝島炭礦への入魂人生』」を表に出して、貝島にかかわった人々に、また父を熱くしていただいた人々に感謝の気持ちを届けたい。また新生宮若市に更に元気を出していただくエネルギーにもなれば幸せですとのご相談があり、夏秋・藤渕は、難波江貞夫氏(宮若市竜徳在住)のご協力もあって、ここに編集し発信するものである。

 なお、この発信にあたり、写真提供など、小郡市在住の池田益実氏の多大なご協力があったことを申し添えておきたい

 また、このページを作成する中で収集した写真を「偲ぶ貝島炭礦写真集」として発信している。この写真集は逐次拡張をはかる所存である。

              藤渕 明宏(宮若市宮田)
              夏秋  充(宮若市鶴田)
              
 平成18年11月1日





宮若市石炭記念館初代館長 故井上芳邦氏 

自分史


目         次
第一部  貝島炭礦入社と文化活動
第二部  宮田町石炭記念館創設
第三部

 朝日新聞掲載「貝島炭礦沿革史」へのかかわり

第四部  私の炭礦人生に多大な力をくれた人々






故井上芳邦氏作成



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期           間
1 明治17年10月 明治38年3月20日
2 明治38年4月10日 明治45年12月
3 大正2年8月1日 大正9年8月19日
4 大正9年11月 大正11年11月
5 大正12年4月 大正15年12月
6 昭和2年4月30日 昭和13年9月3日
7 昭和13年10月8日 昭和20年4月
8 昭和20年8月15日 昭和21年12月
9 昭和21年12月 昭和27年5月
10 昭和27年5月 昭和41年9月
11 昭和41年9月22日  昭和51年8月5日


<お断り> 本ページの写真・画像は、主に
池田益実著「写真集 貝島炭礦の想い出」からの複写です。

新坑平和町から立坑を臨む(S30 奥:福智山 右:新坑ボタ山)
(写真:「貝島炭礦の想い出」から)






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