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犬鳴川開拓史考2

旧犬鳴トンネル建設物語


 現在は全く使用されていない「旧犬鳴トンネル」に思いを馳せる人もあることでしょう。そのトンネルは第二次世界大戦後の昭和24年に開通し、筑豊と福岡市を結び筑豊地区の発展の一角を担いました。そのトンネル開発にまつわるお話を澤田先生から頂き編集しました。         
                               本HP担当者

犬鳴川開拓史考1
犬鳴川開拓史考2
  旧犬鳴トンネル建設物語
                 福岡県立鞍手農業高校 教諭 澤 田 憲 孝
●はじめに
 右下の地図に見られる通りの位置に、旧犬鳴トンネルがあります。この峠は昭和24年11月3日に県道福丸箱崎線として開通、それを利用して昭和25年8月10日より直方福岡間に国鉄バスが運行されだ
新犬鳴トンネル(黄色)と旧犬鳴トンネル(赤色)
しました。
 この旧道は道幅も狭く急なカーブの連続で、産業の発達交通量の増加に対応できず、昭和50年新犬鳴トンネルの開通に伴い、その歴史を閉じました。

● 旧犬鳴トンネル開発の目的?
 第二次世界大戦の激化に伴い、この宮田・若宮より福岡に直接行く道として軍部により旧犬鳴トンネルが計画されました。即ち軍用道路としての犬鳴トンネルです。
 当然軍用道路ですから地元にはすべて内密で行われた様です。この道の開
旧犬鳴トンネル(若宮側)
若宮町誌から
削については昨年発行された若宮町史にはまったくふれられていません。
 この点を地元の様々な人々に聞き取り調査した結果次の様な事が判明しました。
 軍用道路なのですべては地元に内密で行われたということ。また山の中の作業なので誰もその建設作業の過程を知らないままでした。作業には宮田の建設会社があたり、作業員として韓国の人々が従事していた、という事。韓国の人々の飯場小屋は現在の犬鳴ダムの下、清水の滝に行く途中の段々になった所にあったという事です。この飯場小屋の有った所はその段々のまま杉等が植えられています。この韓国の人々が強制連行による人々で有ったかどうかはわかりませんでした。又一部はっきりと欧米人とわかる戦争捕虜の人々が宮田の捕虜収容所(捕虜で宮田の石炭採掘にあたる人々を収容していた)より建設作業にやってきた、との事です。この目の色の違う欧米人は測量等の技術をもっていた為にここで建設作業にあたったという事でした。トンネルまでの道は現在も一部県道として使用されており、また一部は旧道としてそのまま残されています。これらの道の工事はダイナマイト以外機械らしい機械が脇田の方より持ち込まなかった為大変な重労働であった様です。
●旧トンネルの水利権のあらそい
 このトンネルの部分は若宮側を頂点とし福岡側即ち久山町の方に下る片勾配のトンネルです。このトンネルの左側の底部に水路が掘られています。この水路へはトンネル入り口より300メートルほど開拓の方に行った峠川の中より取水され送水されていました。この取水口は現在も川の中にコンクリートの一部を見る事ができます。この水路は流域・分水嶺を越え福岡側に送られていました。この送水(盗水?)は昭和33年頃問題になり、若宮側の関係者により破壊されました。
 問題はこの送水が何故行われたのかと言うことです。水は農民にとっては命の次に大事なものです。水争いは犬鳴川流域でも例外では有りませんでした。水争いで命を落とした農民が若宮にもいます。山田川水利組合は裁判をしてその水利権を確認獲得し、現在も厳しい目で犬鳴川及び山田川の管理にあたっています。
 山田川の水利権確認裁判は明治時代の事です。釜底の堤拡張工事は戦前の事です。農地条件の関係で若宮の山の中等に堤を造り下流の先輩の農民にたいし取水を認めてもらうかわりに米を払ってまでして水を手にしたのです。
 それ程大切な水を何故久山側にとられたのでしょうか。久山側にとっては大きな堤を持たず、人口の増加に対して打つ手も見つからず、やむを得ず犬鳴山中の水に手をだしたと思われます。
 この取水部分の上流は福岡市の護国神社林で有るという事。軍部との取引で工事機械や材料・工事人夫を出す等の条件取引で、ただし片勾配で若宮側の水を久山側に送る事を黙認する事を条件に工事はすすめれれたと推測されます。
 久山川の取り付け道路及びトンネル部分全体を久山側が行う。若宮側のトンネルまでの取り付け部分を若宮側でおこなう。久山側では努力に見合う水を手にすることが出来る。
 かくして軍用道路犬鳴線は久山側への送水路とともに昭和24年完成し、稲作期間中送水されました。---- 昭和33年若宮側の人々が気付くまで。
 水は農民は勿論の事人間にとってかけがいのないものです。同じ過ちを繰り返さない様に山の中を歩き、森林の様子を観察し、家庭排水・工場排水等に注意したいものです。
●旧トンネル開発前はどうなっていたか?
 かつて薦野峠・猪野越・久山越等で若宮と福岡博多地域を江戸時代頃より結んでいた峠そば道もその時代的役割を終え、現在 は登山道や林道の一部としてその姿をとどめています。
これらの峠は江戸時代博多の燃料すなわち炭を年間1万5千俵も若宮より運ぶ峠であり、又博多や玄界灘で生産される衣類や魚等を運ぶ峠でもありました。この峠を通る関係で、現在も脇田地区は久山との姻戚関係が強く、山口は福間古賀等との関係が深いといわれています。
 勿論これらの峠は昭和24年ごろまで徒歩で往来されていました。せいぜい馬や牛で越えるしかありませんでした。その峠は現在も当時の姿そのままで存在しています。
 すなわちやっと人がすれ違える程度の幅でけっこう急な所もあります。この道では当然大量な荷物を素早く運ぶことは出来ませんでした。
 明治より宮田で本格的に生産されだした石炭は、鉄道の直方経由で北九州や 阪神又は福岡方面に運び出されていました。
●おわりに
 なお、この旧犬鳴トンネルを含む一帯は、照葉樹林に覆われた山紫水明の地です。九州大学等の学生が植生調査に毎年やって来ます。ボーイスカウトの子どもたちも毎年やって来ます。また渓流登りに筑豊各地から沢山の人々がやってきます。勿論、ヤマメ釣りの人々もやって来ています。清流には「自生わさび」も育っています。
 こんな山紫水明の地を大切にしたいと思います。



「犬鳴山・峠の真実」を知ろう
 
ところで、犬鳴山・峠は、ちまたで言われる心霊スポットなどには無縁の素晴らしい自然が残った地です。「犬鳴山・峠の真実」の美しい姿は、本ホームページ「みやわかふれあいページ」の中の
 などをご覧ください。真の山紫水明の地、犬鳴山・犬鳴峠がご覧になれると思いますし、今後もその方向で、本HPを充実していきたいと思います。