犬鳴川源流史考

                      
 澤 田 憲 孝 (福岡県立鞍手農業高校教諭)

1 何故犬鳴川源流を考えるのか。

 水は全ての源です。体内の多くは水分で構成されています。水無しに生きていく事は不可能です。空気と水は日本では今まで『ただ』と思われていますが、それが少しづつ『ただではない』ことが理解されつつあります。
 即ち現在水は、水不足・おいしい水・汚れた河川や湖・魚の住めない河川や湖・酸性雨・工場住宅用地としてきれいな空気と水の在るところ等として水の存在意義が問いなおされています。
 この点犬鳴川歴史年表に見られる通り、人間の生存は農業それを支える水・河川によって規定されてきました。水のある所に農業が発達し文化が発達してきました。犬鳴川でも若宮・宮田の比較的安定して水の得られる所に米を中心とする農業が発達し、この米は(貴族や武家の垂涎のまと)として収奪の対象にされてきました。又この米は犬鳴川・遠賀川の水運で年貢米として運びだされてきました。
 この米を間違いなくつくる為の必須条件が水の存在です。この為、井堰を造り、さらに堤を総出でつくり、洪水を防ぐ為河川工事を永年にわたってやってきました。とりわけ新入や鞍手町等現在の山田川から取水している人々は犬鳴山等の源流まで森林の手入れにやって来ていました。すなわち水源としての森林の植樹伐採下草刈り等の作業に江戸時代頃より行っていました。車のない時代に4〜5里先の山までの作業は大変だったとおもいます。
 何故山田川の関係者が犬鳴山中までいったかと云いますと、上流の若宮町が一番最初に取水し、その後宮田町で取水され、残りの水しか現在の新入・鞍手町の農民は使用出来なかったからです。それは当然水不足として、又飢饉として命の問題として発生するからです。最下流に農業を営む農民としての宿命です。それ故に4〜5里先の山まで作業に行かねばならなかったのです。
 犬鳴川の流路変遷史に述べているように、1600年代今の犬鳴川は宮田町中央部で乱流し、鶴田のところで一方は奈良津の方に流れ、又一方は現在の新入の方に流れていたのです。このため鶴田のところで二分するため新入方向の水不足は日常的であったと考えられます。1600年代現在の天神橋の所で二分した犬鳴川の水を取水する為、井堰を作ったが、水不足はどうにもならず、はるか上流の若宮町金丸からの導水を1656年始めましたが、粥田橋の手前での難工事で一度失敗し、1763年頃の洪水で犬鳴川の流れが現在の流れに確定し、やっとの事で山田川の取水はいくらか安定した様です。
 しかしそれでも水不足は止まず、水不足による水争い・飢饉はさけがたがったようです。犬鳴川歴史年表は飢饉が多すぎてそれ程記していませんが、数年に一度は水不足による飢饉が発生した事を直方市史や鞍手町史等は記しています。
 それ故下流部の農民が天神橋の近くに(花の木堰)が完成しても、下流部の宿命として犬鳴山中にその後も森林の水源としての保全作業に行かねばならなかったのです。その事は犬鳴山系の一つ笠木(置)山の植林等の作業記録や交渉記録により確認されています。此等の記録文は山田川水利組合(正式には中間市他二ケ町水利組合)が作業記録集として保存しています。

2 福岡県地理全誌に見る源流

  文書記録として犬鳴山系や犬鳴川流域の清流・滝等の書かれているのは、明治初期編纂された福岡県地理全誌しかないようです。この文書内容は江戸時
観音滝

 ○高さ6m
 ○幅3m
 ○現地までの危険性‥
     やや危険

代後半期を含めて、当時の様子が書かれていると判断していいようです。

 この中では下記のように記されています。(淵等河川の中関係は除いています)
 @ 滝関係
   若宮ー白滝(観音滝)ー脇田地区。明星滝・荒滝・音羽滝ー清水地区。房滝(龍王滝ー乙野地区。
  この内宗教的対象として仏等が祭られているのは、白滝(観音滝)、音羽滝、房滝(龍王滝)です。
   宮田には滝関係は記載が有りません。
 A 清水関係
  イ 若宮ー徳泉(湯原)、岩清水(金生)、御供水(小伏)、宗宅井・森の水(稲光)、柳の井(沼口)、野中水・小原水(山口)。
  ロ 宮田ー粥田浦、晴明池(磯光)、井堀池(上有木)。
 B 福岡県地理全誌考察
馬口の滝

 ○高さ11m
 ○幅3m
 ○直瀑
 ○現地までの危険性‥
   安全

 滝・清水関係では若宮の現在の地形図に記載されている馬口の滝、神舞峡が記載されていません。宮田関係では地形図に記載されているのは千石峡ですが、これも全誌には記載されていません。
 考察として、犬鳴谷が(筑前の秘境としてよくわからず)と幕府に報告されたように、この犬鳴山・西山等の地域は深くて住民のほんの一部例えば狩猟等で入山する人以外に様子が判明していなかった関係で記載されていなかったと考えられます。
  さらに報告書のスペースの関係で記載されなかったとも考えられます。
   ただ全誌に記載されている滝・清水の内、一部が現在実質上存在しない事は非常に残念です。たとえば房滝(龍王滝)は新幹線トンネルによる影響で滝そのものはありますが、降雨の激しい時を除いて空滝としてしか存在しません。この滝は宗教的対象として、地域の人々によってお参り等がされていました。
3 犬鳴山の源流を尋ねて
 若宮の西にそびえる山々は、北より西山・犬鳴山・菅嶽・鉾立山・畝原山という高さ約600mの三郡山系の一部で、三郡変成岩と言うおよそ2、5億年〜3、5億年前に形成された地層です。国土交通省遠賀川事務所では、この一帯を砂防指定地域としています。
 南は国有林が多く、北は私有林中心です。杉や桧の植林が多
 晴明池(左写真)は、宮田町日陽山の頂上部普光王寺(ふこうおうじ)にあり、平安時代の占い師「安部晴明」(あべのせいめい)の手によるとされ、干ばつにあっても一度も水涸れしない不思議な池と伝えられています。(本HP担当者より)       
いいのですが、一部原生林に覆われています。その原生林の場所は県道直方ー福岡線の犬鳴ダム〜犬鳴トンネルの谷間に見られる様な姿ですが、その実際の様子は中に入ってみないと、実感としてその厳しさ恐さは体験出来ません。
 11月〜4月は渓流は冷たくて中を進む事が出来ません。いきおい上流に行く為絶壁の上の山ぎわを行く事になるのですが、至る所地滑りが発生していて、恐くて恐くて仕方がありません。二度と寒い季節行きたくないのが犬鳴ダム〜犬鳴トンネルの谷間です。ただしここも5〜10月の水の暖かい時期であれば渓流登りの感じでいけます。ただし家の様な大岩があちこちにあり、楽な渓流登りではありません。
 この渓流は40m〜50m上の県道より投げ込まれたゴミで綺麗とはいえません。
これに対して、県道や林道より外れた渓流は一部を除いて綺麗そのものです。但し命懸けのルートであることには変わりがありません。
 この犬鳴山系にある数十本の渓流の入り口は植林された地域ですが、林道らしい林道がなく、すぐに道のない山林になります。この山林の渓流を水源を尋ねてのぼります。幅は20m位から段々狭くなり、崖が迫ってきます。勿論原生林のままです。この渓流は植林しようにも急な崖で木も育たないし、運び出しも不可能です。
 但し水はあくまでも(綺麗)の一点です。どこの水も飲めます。飲めなかったのはただ一ヶ所滝の上に突然畑が開け、谷間に冷蔵庫やビン等のゴミが捨ててあった所だけでした。数十の渓流の中に突然あらわれたゴミの山に(なんでこんな所に)という非常に慚愧に耐えない思いでした。
 多くの渓流は多分数十年以上人が入っていないのだと推測されました。勿論道もなく蔦で覆われ先は暗くて見えずです。その薮を切り払っていると突然滝の様なのが表れ、行く手を遮ります。これに負けじと蔦を切り、覆い被さっている木々を切り払い見通しをつけ、滝登りを続けます。とにかく源流、水の切れる所をめざして危険を顧みず滝登りを続けます。服装は落下していいように、セーフガードのヤッケを着て、勿論ヘルメット着用です。足はスパイク靴です。それでも渓流に何度もすべり落ちました。上着も何枚も破りました。
 多くの谷には人参谷・藤七谷・じいが谷の様に名前が付けられていて、名前より谷の様子が想像されますが、さっぱり想像がつかない時もあります。
 山に入る時地元の関係者に谷や山の名前の由来を聞きますが、時々地元の人も分からない名前の谷や渓流があります。
 その一つが犬鳴ダムの右岸側の(あなぐら)でした。地元の人に聞いても(?)の返答のみです。本流をはづれ、支流の渓流に入りやっとの思い出(あなぐら)らしい所についてわかりました。谷間から水はどんどん流れて来るのですが、どこから水が流れてくるのか見えないのです。仕方なく草木の覆い被さった谷間を這って渓流登りです。
 先がまったく見えないので、ただ闇雲にすすむだけです。トンネルの中を進んでいる感じです。即ち(あなぐら)です。この中を水は勢いよく流れているのです。四つんばいになってはい登りながらやっとこの渓流に(あなぐら)の名称が付いた理由が判明しました。勿論四つんばいで、下に履いていたビニールのズボンはびりびりに破れています。下着もびっしょりぬれています。これが滝さがしの実態ですし、滝を見つける楽しさです。勿論この(あなぐら)にやってきたのは自分一人だろうとおもいます。勿論清流中の清流です。第一このような若宮の渓流登り・滝捜しでは水筒は持って行きません。清流を口にするだけです。

4 滝・渓流

 国土地理院では地形図に記載可能な落差2、5m、幅1、5mクラスを滝とし、二年に一回各市町村に尋ね、地形図の変化した所を新しく書き替えているようです。たとえば道路の新設やダム等の新設を書き加えるます。発見された滝もこの時加筆されます。
 新しく滝等が発見された時も、各市町村の届けによって記載変更しているようです。では市町村は(滝を見つけた)という連絡に対してどのような反応を示すでしょうか?
(答えは???)です。推測では
 1 滝とすればそこへ行って事故が起きたときの事を考えます。
 2 滝のある所が私有地の場合ゴミを捨てられたり、山の植物等の盗難の心配をしなければなりません。
 3 知らなければ不必要な心配をしなくてすむのでは、という感じです。
 4 滝といえば、華厳の滝や那智の滝のようでなければという事も一般論として考えられます。

 では書物では滝についてどのように記載されているか見てみたいと思います。
(日本・滝めぐり)(高山茂美)や(滝1)(鉄弘一)等滝に関する様々な書物では、次の様に書いています。
 @ 滝の定義
 川の水が疾走する場所を『早瀬』または『急湍』といい、河床勾配が垂直に近いため、川の水が高い所から落下するものを『瀑布』(ばくふ)という。この二つをあわせたものを(滝)と言う。

 A 滝の形
  流れ方により、
   イ 直瀑 例 那智の滝。
   ロ 段瀑 例 称名の滝。
   ハ 分岐瀑 例 姥ケ滝。 
   ニ 渓流瀑 例 四十三万滝(この例が非常に多いー若宮の滝もこれが多いです)
   ホ 潜流瀑 例 赤目四十八滝(スケールが小さいが若宮に一ヶ所あります)
   ヘ 混合瀑 例 若宮(緑風第四の滝)。

 B 滝の成因
   イ 川の侵食作用の復活によるもの。
   ロ 岩石の堅さの違いによるもの。
   ハ 元の地形に段差が生じているタイプ。 
   ニ 岩盤中の節理(割れ目)によるもの。 

 C その他
 日本の滝は信仰の対象となっている所が多い。滝には仏等が祭られていることが多い。滝うちの行。

 D 滝のスケールについて
 これらの滝関係の本では様々な滝の写真が写っています。落差数百mから数mまで。幅も流量も様々です。ただこれらの滝の写真から云える事は滝はスケールではなく、(見る人が滝と感じているかどうか)と云う視点です。
 見る人が了解すれば落差数mでも滝であるし、数十mでも滝にならないと云う事です。それ故落差5m〜10mクラスの滝の写真が沢山滝の本に記載されています。又撮影時期についても水量も豊かな時期を選ぶ様に指導しています。即ち本に出ている滝は水のない空滝の時もある滝が写真として写されています。
そうです。
(大きさが問題ではなく、見る人によって、又その地域にとって如何なる存在であるか)が滝になるか、単なる水の流れになるかの分岐点と思います。
 このてんから云いますと、若宮の多くの滝は渓流ばくで、高さはそれ程でも有りませんが地域を支える源流であり清流である事から云えば、どれも素晴らしい滝と言ってもいいと考えます。これら若宮の滝の下流の数ヶ所では水汲み場として水が持ちかえられています。勿論その殆どが人を寄せ付けない山また山の中にあり、殆どの滝が人目に触れる事はありません。これが犬鳴山中に存在する多くの滝が源流とされる所以です。
 様々な滝の写真集には、それこそ(これが滝だ!)と感動させる素晴らしい滝の写真が次から次へと展開します。全国に一万をこえる滝の中から選び抜かれた滝の写真集ですからこれも当然です。しかし大きな滝には時として滝の上流に市や町があり、下流の滝の水は飲料に不適の場合も有るのです。
 この点でいいますと、犬鳴川流域の滝はその殆どが素晴らしい清流です。もちろん飲用可です。我々が誇れる滝の水であり、後世に残さなければならない貴重な財産です。

5 川の中を行く

 次に河川全体を見る為に源流より河口まで一部川の中を歩き、又カヌーを漕いで芦屋の河口まで行きました。この中で体験した一部を記したいと思います。

 脇田〜若宮中心部にいたるところに存在する井堰の多いい事にびっくりしました。
 とにかく井堰が多いいのです。上流部の井堰は木杭で造った簡単な物が多く、段々進むうちにコンクリート井堰になっていきます。下流になるほど堰の規模も大きくなり、堰どうしの間隔も広がります。下流では落差も大きくなり、カヌーを下に降ろすのが大変でした。降りるのに失敗し川の中に何度も落ち込みました。上流で落ち込むのはいいのですが、下流では汚水の中に落ち込んだ感じで落ち込んだ後が大変でした。
 この井堰の多さは遠賀川特有のもので、他の河川の倍ぐらいの多さです。例えばコンクリート等の半永久的な堰でみますと、犬鳴川74箇所・筑後川32箇所・菊地川30箇所・山国川4箇所・球磨川6箇所です。長さ流域面積ではそれ程大きな数値でない遠賀川は他の大きな河川に比し井堰数において比較にならない程の数を示しています。この事は遠賀川の農業用水としての使用率の高さを示しています。即ち如何に遠賀川が役に立っているかを示しています。
 この点遠賀川は人口密度の高さ、炭鉱鉱害の経験等厳しい条件の中の河川と言えます。

 堤防のない所が何箇所かありました。普通河川堤防は連続堤ですが、犬鳴川を含め遠賀川には堤防の無いところが沢山あります。
 また霞堤が遠賀川全体で19箇所もあります。

 脇田温泉上流は比較的清流ですが、温泉の所がひどく汚れています。元々この所の岩は白っぽかったのですが、犬鳴ダムが出来てからと言うもの汚れがひどくなったと言う地元の古老の話です。昔はどじょうや鮎山女等も生息していた、篠栗から来たお遍路さん達がこの場所で川の水を飲んでいたそうですが、現在は泳ぐことすらためらうぐらい汚れてきたとの事です。泳いでいる魚は汚れに強い「ハヤ」位でした。
  2002年平成14年11月の1年2組文化祭で犬鳴川の取水展示をした時、生徒が汚れのひどさに取水をいやがった位のひどい汚れでした。
  この汚れたながれも温泉より数百m下流に行きますと、再び見た目ではきれいになっていました。これは多分葦(あし・よし)等の水性植物による浄化作用のお陰とおもいます。ここでは、(はや)以外に鯉・なまず・ふな・どじょう・等も見られました。

ニ これらの魚を餌としている小鳥を沢山みました。

 堰のある所で一度完全に川の水がなくなる事があります。それでもしばらくカヌーを引っ張って行くと、再び川の中に水が流れだしていきます。原因は田の水が地下水として再び川に一部戻ってくるからです。田は小さなダムとして洪水防止能力をもっていますが、一方で地下水涵養能力も持っています。川の中を暑い夏歩くとこんな事を体験することが出来ます。再び水が流れ出した部分は大変きれいです。田の浄化作用です。
 この体験は8月16日田川市の彦山川の糒堰でも実感しました。糒堰はこの頃造られた近代的な堰で、地盤が岩盤の為完全に流れをシャツトアウトします。この為下流は完全に流下量がゼロになっていました。しかし数百m行くと再び下流では流れが生じていました。堰ではひどい匂いのした水も下流では生き返っていました。金田の河川公園の流れの中では親子連れの家族が楽しそうに遊び泳いでいました。

 葦に中に入ると流心(一番深い流れの所の部分)がわからなくなる事がしばしばです。また乱流状態で流れている事も珍しくありません。堤防上より見ると川の流心はどこ にあるのだろうか?と思いますが、実際川の中を歩くと流心を見付けるのは大変な事です。また葦等のため、下るのは大変な作業です。上流方向を見つつ下流方向におしりを向けて闇雲に下流に向かって進まなければならないのです。この体験の中で別紙報告書に見られる通りの(犬鳴川流路変遷史考)が生まれてきました。

 カヌーで下っていると実感することですが、川の水深が浅いという事です。福岡県地 理全誌によると、江戸時代脇田〜若宮間の水深は約1尺、若宮〜宮田〜植木は約2尺となっていますが、現在はどこも1尺以下です。カヌーで河口に向かうのが大変でしばしばカヌーをおりて川の中をカヌーを引っ張って歩かなければなります。ダムが出来、舗装等で流出情況が悪化したからです。
 即ちダムで流出量が減り、さらに舗装等で地下浸透量が低下し、平常水量が低下したのです。これに洗剤の使用や油料理の増加・料理の残りかすを簡単に下水に流す事等が重なり河川の汚濁化が進行しました。遠賀川は現在九州では汚染河川の最先端をいく汚れた河川なのです。

 犬鳴川は脇田温泉付近・若宮町部で汚れが目立ちちます。脇田下流〜若宮町入り口までは比較的きれいでした。若宮町より下流は透明度が低下し、長井鶴辺りより匂いもひどくなり、河川汚濁がはっきりと感じられました。

 その他
 @ ジャンボたにしの赤い卵は脇田温泉下流2km位からその存在が確認されます。卵は葦やコンクリート護岸構造物に付着していました。
 A 粥田橋より下流の土のままの川岸の一部が、洗炭によるドロの堆積として現在も残っています。飯塚市役所よりの下流でも、又田川市役所よりの下流でも同じ情況が確認されました。
 B 本流に支流が合流する所では、しばしば泡立ち現象が見られました。また合流点ではクレンソーの自生が多くみられました。
 C 透明な水は緑にならず、茶色ポク感じられます。頴田町より下流、田川市より下流、若宮町より下流の河川がこれに該当します。
 D 小竹等の一部では汚物が浮き上がり、泡と一緒に交ざり汚れのひどさを示していました。
 E 遠賀川はどこも鯰の多いい河川と感じました。福岡県地理全誌では、明治25年ころ下流での漁獲量として、鰻695貫・鯉270貫・鮒541貫・ナマズ317貫を記  載しています。
 F 河口では製鉄所や化学工場が取水しています。北九州市も取水しています。この関係で河口堰の所では、水に酸素をいれつつ、流れを生じる様に河川工作物が設置されていました。
 G いたるところで発砲スチロールのゴミをみました。彦山川ではお盆のお供え物が川岸のアチコチにありました。これらはゴミとして河口まで流れるのだろうと思いました。小竹や宮田ではこれらのお盆のお供え物を川に流さず川のそばの一ヶ所に集め処理されていました。
 H 折角造った河川公園の護岸にゴミが流れ着き、これではいけないなーと感じました。  赤池の市場の付近の河川公園の事です。
 I カヌーで下ったのが夏だったので、遠賀川のあちこちで遊ぶ姿が見受けられました。以外と多いいと思ったのが、プレジャーボートによる魚釣りやボート遊泳でした。
 J 川のあちこちにある排水樋門・排水管や手入れされた護岸を見て、河川管理の大変さを実感しました。

6 まとめ

 源流より河口まで行って感じた感想は源流の人を寄せ付けない厳しさ・滝等の水緑の美しさ、それに対して田畑の環境にたいする隠れた役割、さらに下流の汚れでした。源流の良さを生かすも殺すもそこに住む住民の河川な関する愛着心であり、河川に対する意識差と感じました。

 

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