犬鳴山開拓史考
  犬鳴山開拓史考

  このページを貴「お気に入り」にワンタッチ追加

宮若市の犬鳴川河川公園から観る
犬鳴川源流の犬鳴山(薄く見える右手の最奥のやまなみ)



○話し手  西島正吉94才、
        西島  才
        波止辰雄74才

○聞き手  澤田憲孝59才


 
 この話は2002年12月西島さん親子及び2003年2月波止さんよりお聞きした話を澤田がまとめたものです。50年以上前の話であり、おおよその感じとしてお聞きした話をまとめましたので、名前や年月に少し勘違いがあるかも知れませんがその点ご了解下さい。また犬鳴川流域の様々な文化の一断面としてとらえていますので、現在も現地で農業をされている皆様には失礼になるかも知れませんが、史考の一部として発表させていただきます。


 旧犬鳴トンネルより左側を約1〜2q登ると左側に一本の舗装された山道があります。さらにもう少し登ると又左側にもう一本の舗装された山道があります。これら二本の山道の行き当たりが犬鳴開拓です。二本の山道の右側に狭い水田があり、さらに真っすぐ行くと山を抜けて福岡側の柳ケ原に15分程度で行きつきます。
 この柳ケ原は江戸時代頃から人が住んでいたと言う事で、親子何代にもなる人々が農業中心に生活を営んでいたということです。犬鳴開拓最後の奥の水田はこの柳ケ原の地区の人々の水田です。
 犬鳴開拓の土地はかつてこの土地の所有者が福岡の護国神社に寄贈された土地と言う事で現在も多くが護国神社の土地であり、一部は国有林・民地になつています。約3〜4億年前ごろに出来た三郡変成岩の土地であり、この三郡変成岩は犬鳴山西山の母岩になります。標高は400m〜500mで、夏涼しく冬は厳しい寒さ雪に覆われます。国土交通省遠賀川工事事務所による砂防指定地域です。

 西島さんは糸島出身で戦前満州に開拓農民として中国に行かれ、戦後若宮町の小金原開拓地に行政の指導で入植されたそうですが、水が少なく農業に適さなく昭和28年再び県の開拓課や若宮町等の指導で犬鳴開拓に夫婦で入植されたとの事です。
 波止さんは若宮の脇田の農家出身で学校卒業後一時製材業に従事しつつ、家業の農業を手伝っていたと言う事です。家の農業を弟に譲り希望して犬鳴開拓に昭和28入植されたとの事です。
 28年当時入植された農家は3家族と5人の青年だった様です。昭和24年旧犬鳴トンネルは開通しており、開拓地までトンネル入り口バス停より約15分程度の距離でした。勿論未舗装の道路で脇田温泉に出るのに歩いて30分位かかったそうです。
 入植当時現地は何もないない所で、各自丸太等で四畳半程度の家といえない家をつくり山水・ランプで生活をスタートされたとの事です。戦後まもなくの事で食糧は実家の応援や県の開拓課の支援を受けてのスタートでした。布団や少しだけの茶わんや鍋と農作業用具をもっての入植でした。
 何より大変だったのが農地の造成です。一軒当たり8反位の割り当てが県よりあり、5年頑張れば入植者の者になるという条件でした。しかし割り当てられた土地は杉山であり孟宗竹や雑木の山でした。一日で三本の孟宗竹の根を掘り出すのがやっとのことだったそうです。勿論石ころだらけの土地で、農作業用具は三鍬・平鍬・つるはし・スコップ等だけで、機械はまったく有りませんでした。
 面積は結構広かったのですが、何分にも土地が土地だったので三反農地にするのに三年位かかった様です。次々出てくる石を手で運びだし隅に積み上げ、少しづつ畑にしていった様です。勿論山の傾斜地で石の多いい土地だったので水田にはなりませんでした。
 電気のない生活で大変困り県に陳情し、柳原まで電気は一次計画で来ましたが、二次計画で開拓地まで来る計画が県の予算が立たず、ついに電気が来ないままで現在に至っています。北海道での風力発電を聞き試しましたがだめでした。
 余りの条件の厳しさに、入植8軒の内数軒がすぐに入植地を出て他に移られました。今思ってもゾットする開拓地の生活のスタートでした。冬は山林の山仕事や炭作り等で収入の補いをしました。冬の朝起きると雪で入り口の戸が開かない事がしばしばでした。竃や風呂の燃料は山の中なのでそれ程不自由しませんでしたが、寒さには大変困りました。
 水田が不可能なため、白菜・キャベツ・ほうれん草・大根等を育て販売し生活の糧にしていました。出荷は自転車で福岡の箱崎の市場や千代町市場に出していました。何分野菜がない時代だったので大変いい値で売れました。ただ自転車での出荷だったので帰宅が大変でした。その後三輪自動車を皆で借り、市場まで出荷するようになりましたので出荷がずいぶん楽になりました。
 高冷地野菜中心で、ほうれん草やキャベツ等を上手くつくると一年中出荷出来るようになりました。結構いい値段で売れました。その後ミゼットと言う貨物自動車を購入し各自で出荷する様になりました。ある人は直方の市場、ある人は小倉の市場とそれぞれの力量や才覚で販売ルートを開拓していました。いい時はサラリーマン以上の収入になったように思います。
 昭和30年代多いい時は30名位の家族が生活を営み、行商の人々が魚や調味料等の日常品を車で販売にやって来ていました。時には出荷の帰りに日常品の買物をして帰宅しました。
 波止さんはその後結婚され現地で電気なしのランプ生活で、専業農家として頑張られていましたが、娘さんの小学校通学問題があり、昭和37年頃開拓地をおり現在の脇田に戻って来られました。その脇田からオートバイその後自動車で開拓地まで通い、通勤農家として現在も現地に通っていらつしゃいます。通勤農家のはしりです。
 西島さんは入植後しばらくして子供さんが誕生しました。現地で家庭生活・専業農家としての生活を続けられました。子供さんは若宮中学・鞍手農業高校をトンネル入り口のバス停より通いました。【住めば都】と言ったもので息子さんは【楽しい山の生活でした】と話されていました。

 昭和56年頃澤田が【若宮の開拓に西島さんと言う青首大根・ホーレン草作りの名人がいる】との話を聞き最初の訪問をしました。トンネル入り口に車を置き、歩いて開拓地を目指しました。左下の流れが右側の流れになる頃より非常にきれいな清流となり、川の中の緑が水にあい、素晴らしい光景を見せました。透き通った水はそのまま飲める状態でした。多分わさびを育てればいけるのではないかと思わせる流れでした。しかし上を見ても電線も電信柱もありませんでした。有るのは杉と青々と茂った緑の木々でした。錦鯉を飼い、池を造るのが趣味の私にとっては理想の自然環境でした。杉の生育状態もよく手入れされていていい状態でした。
 流れにそい左折し渓流添いに車がやっと通れる道を歩き続け、少し急な坂道を登り開拓地に着きました。広さは1〜2反位の畑が何段も広がっていました。すべての畑は石段で上下に別れていました。ビニールハウスが数棟あり、聞いていた青首大根やホウレン草がありました。これが直方の青果市場で有名な西島の青首大根やホウレン草かとおもいました。この畑の一番上の方に家がありました。
 声を出し、案内を請いました。すぐに作業中の西島さんが出てきて、私の様々な質問に答えて頂きました。一番驚いたのはジーゼルによる自家発電の設備でした。都会育ちの私にとって電気のない生活は想像がつきませんでした。聞くところによりますと、尋ねた夏には【夜以外は冷蔵庫の為必要に応じて発電するだけです】との事でした。【出荷は四輪駆動の自動車で行ないます、冬の雪には困りますがそれ以外特に不自由は感じません】との事でした。
 農作業の中心は青首大根とホウレン草中心で、冬には山の手入れの仕事をしたり、春に備えての準備をしながらの生活でした。標高500m前後なので高冷地野菜中心に考え、【みずはけの良さを逆用していけば、結構いい値段で売れるので何とかやっていけます】との答えでした。ただ【工夫に工夫をしないとやっていけません、工夫との戦いです】との事でした。工夫の一つに材木で造ったビニールハウスが有ります。あの台風19号の強風にも大丈夫でした(後日談)。夏の雨で日焼けする為雨よけ栽培もしました。

 さらに【私の場合後継ぎがいますのでなんとかやっていけそうです】との説明でした。
 その後開拓地は昭和40年代に入り西島さんと毛利さんの二家族となり、さらに毛利さんもおりられ、毛利さん・波止さんが脇田よりの通勤農業をされ、最後は西島さんだけにりました。西島さんは平成初期に開拓地を離れ、現在の高野で専業農家として今も開拓地に通いながら専業農家として頑張っていらっしゃいます。西島さんは借地の一部にブロッコリーを植えながら次の農業の有り方を考えています。
 波止さんの子供さんは全員サラリーマンになり、【開拓地の後継ぎはいません、私の代で開拓農業は終わりそうです】とのことでした。

 牛島さん波止さんが現在困っているのは、【今まで高冷地野菜中心で犬鳴の特色を生かしてやってこれましたが、現在は青果市場が農協を通しての大量出荷中心で、佐賀・熊本・北海道・中国山地等の高冷地野菜それも大量出荷に太刀打ちできません、工夫の限界にきています。また中国の安い輸入野菜に押され、先の見通しが立ちません】との事でした。それでも西島さんは【鞍手農業高校で学んだそして父から学んだ工夫する力で何とか開拓農業を守りたい】との強い意志でした。

 この取材の中で二つの不思議な話を聞きました。
 一つは旧犬鳴トンネルには犬鳴側より福岡側の方向に降る水路が在り、犬鳴開拓地の清流の水が福岡側に流れるようになっている、と言う事です。即ち山越のトンネルを掘る時、水不足の福岡側に流される様な勾配で水路が施工されたという奇妙な事実です。普通水利権の関係でこんな事は考えられません。平成11年水害で開拓地に行く河川の一部護岸が壊れた時この水路の一部が出てきたそうです。水路の大きさは直径40pー50p位の様でしたとの事です。

 もう一つは新幹線工事の頃、トンネルより上流少し開拓地よりの渓流の中にひび割れの様なものが生じ、渓流の中にトタンの様なものが入れられ漏水防止工事がされたような気がします、との話でした。このトタンの様な物については、三回目の開拓地訪問の時【こんな大きなゴミが何故?】と感じた事がありました。これについてはトンネル内水路の存在調査と一緒に機会を見つけて報告したいと思います。

 最後に此の様な開拓地農業が様々な工夫の中で、何とか生き長らえてほしいと思います。またこんな条件の厳しい中で農業や山林業が営まれ、水を守り、洪水を防ぎ、素晴らしい自然環境を我々に与えている事を忘れてはならないと思います。
                        2003、平成15、2、8。


 参考

 犬鳴山開拓地への道の途中に犬鳴開拓に関する記念碑が有りますので、参考にここに記します。原文は縦書きです。一部数値及び数値に関する単位等判読に困る部分が有りました。誤記があるかも知れませんので、詳しく知りたい方は、現地記念碑を読んで下さい。
 
   将  然  で  更  十  と  に  地  亜  こ  一  こ  奉  の  五  此          
   来  る  現  に  八  し  譲  の  戦  と  六  れ  納  基  郎  の          
   の  に  在  農  町  て  渡  中  争  と  と  が  さ  本  医  山     犬    
   為  神  の  地  十  減  す  五  終  な  な  管  れ  財  学  林     鳴    
   神  社  総  開  七  反  る  町  結  り  っ  理  た  産  博  は     山    
   社  に  反  拓  歩  及  こ  四  に  福  た  に  も  林  士  昭     基    
   直  於  別  道  一  び  と  反  伴  岡  の  つ  の  と  が  和     本    
   営  い  は  路  五  譲  と  六  う  県  で  き  で  し  御  十     財    
   林  て  五  敷  七  渡  な  畝  社  に  こ  検  あ  て  創  五     産    
   と  は  七  と   ` の  り  二  会  於  れ  討  る  台  健  年     林    
   し  明  二  し  五  手  こ  十  情  い  を  の ┌┐ 帳  中  十     記    
   て  治  九  て  二  続  の  歩  勢  て  県  上  改  反  で  二     念    
   運  維  九  0  五  を  実  を  の  管  行  実  行  別  あ  月     碑    
   営  新  四   ` 八  と  測  未  変  理  造  測 └┘ 九  っ  一          
   す  祈  と  2  一  っ  面  墾  動  造  林  の     十  た  日          
   る  百  な  2  と  た  積  地  に  運  と  結     三  当  福          
   こ  年  っ  6  な  の  を  開  よ  営  す  果     町  神  岡          
   と  を  た  4  り  で  基  墾  り  し  る  そ     九  社  県          
   を  迎 ┌┐ を ┌┐ そ  礎  の  右  た ┌┐ の     反 ┌┐ 会          
   適  え  改  処  改  の ┌┐ た  土  そ  改  面     六  改  議          
  ┌┐ る  行  分  行  反  改  め ┌┐ の  行  積     十  行  員          
   改  に └┘ し └┘ 別  行  農  改  後 └┘ 六     五 └┘ 合          
   行  当     た     は └┘ 林  行  大     三     歩     屋          
  └┘ り     の     五     省 └┘ 東      `    を     友          
                                                           
 
                                       に  こ  者  新  和  切    
                                       本  と  合  百  四  と    
                                       碑  と  屋  年  十  認    
                                       を  な  友  記  四  め    
                                       建  っ  五  念  年  右    
                                       て  た  郎  基  四  県    
                                 昭     感 ┌┐ 先  本  月  行    
                                 和     謝  改  生  財  一  造    
                              福  四     の  行  の  産  日  林    
                              岡  十     意 └┘ 厚  林  か  の    
                              県  四     を     志  に  ら  解    
                              護  年     表     を  改  神  除    
                              国  十     す     永  め  社  返    
                              神  二     る     遠  植  直  還    
                              社  月     次     に  林  営  方    
                              宮  二     第     伝  の  の  を    
                              司  十     で     え  実  明  福    
                                 七     あ     る  を  治  岡    
                              平  日     る    ┌┐ 挙  維  県    
                              川       ┌┐    改  げ ┌┐ 庁    
                              隆        改     行  以  改  に    
                              一        行    └┘ て  行  願    
                                      └┘       寄 └┘ 出    
                                                付     昭    
                                                           



トップページへ