犬鳴川はどこを流れていたか
犬鳴川はどこを流れていたか
犬鳴川物語2

犬鳴川はどこを流れていたか2(犬鳴川の流れ・ロマン)


 宮田町内に流れる犬鳴川は、数百年前、どのように流れていたのか、本HP担当は強く求めていました(犬鳴川物語1)ところ、鞍手農業高校教諭澤田憲孝氏の長年にわたる素晴らしい研究に接する機会を得ました。ここで、その原稿をもとに研究の一端を紹介しましょう。
 なお、本HPの内容は、インターネットプラウザの機能上、澤田氏の原稿を忠実に紹介しているとは言い難い部分が多々あることをお断りしておきます。
                    (本HP担当者)





 犬鳴川流路変遷史考

               澤 田 憲 孝(福岡県立鞍手農業高等学校教諭)


                                            2003.1.31


 図面資料 
  1. 北九州市史(1985より転写)<本HPでは省略>
  2. 瀬戸内海航路図(鞍手農業高校図書館蔵・日本歴史地図より転写一江戸時代初期
  3. 筑前国慶長国絵図(直方図書館蔵より転写一江戸時代)
  4. 筑前国図面(福岡県史資料続第四編地誌編一鞍手農業高校図書館蔵昭和18年発行より転写−1701年元禄14年6月の地図)<本HPでは省略>
  5. 香井田村併合記念誌一地勢図(1927発行・直方図書館蔵より転写)
  6. 訂正鞍手郡国(福岡県地理全誌・西日本文化協会発行より転写)<本HPでは省略>

    
<主題テーマ>犬鳴川(大川)
     どこを流れていたか
上大隈の「みどり大橋」鶴田方面をのぞむ
   (平成13年7月 犬鳴川川下りにおいて)

 
ここらあたりから、右に曲がって小竹方面に流れていたのでしょうか。
 「犬鳴川の若宮町部での流路については、ほぼ現在の所を流れていたといっていた」といっていいようです。しか宮田町部、特に現在の役場過ぎからの流路ついては様々な考えがあり、問題のある所です。この点について大筋下記の様に考えます。 









結   論

 犬鳴川は、江戸時代までは、宮田町田淵・本城・龍徳辺りでは乱流していた。この地は、遊水池・沼地・はっきりしない堤防を有する川・湿田・小高い丘などの交ざった土地であった。川と思える部分は、田淵・本城・龍徳辺りで北の山に近い部分と南の現在の川部分に二流していた。その後今の香井田部分で一度合流し、その後再び流れは、南良津方向に流れる部分と、新入の方に流れる部分とに二流した。この二流は、その時々の水流により南良津方面が大きくなったり、又は新入方向の流れが大きくなったりしながら、いずれとも決しかねる状態で江戸時代を迎えることになった。
 黒田入国及びそれに伴う農地政策により、田淵・本城・龍徳の耕地整理・犬鳴川の確定工事が行われた。 このとき二流していた川の北部分を廃川し、ほぼ現在の位置に固定のための堤防工事を行った。但し香井田部分の先は二流のままで、南良津方向と新入方向の二流はそのままであった。
 1763年洪水があり、二分していた流れの内、新入方向の流れが大きくなり、この時代以降流れは、ほぼ現在の流れに確定していった。


理由

 以下上記のように考えた理由を記します。

【理由1】 図面・地図についての信憑性と
        そこからの考えられる内容

 1、北九州市史(1985)−これについては問題なし
 これから考えられる事は以下の事です。
 宮田地質図(宮田町史・上巻から)
  地図内の沖積層(灰色)は海・潟であったと見られます。
       ※ 本資料は本HP作成者追加 
 古遠賀湾は深く筑豊内陸部まで入っていた。犬鳴川で言うと現在の新入や小竹の先まで海であった。この先の宮田は入江であり、沼地・湿地等であった。
 入江は小竹方向からも新入方向からも宮田に通じていた。この入江・湿地の先が現在の犬鳴川であり、八木山川である。即ち(1)に述べた通り田淵・本城・龍徳・鶴田辺りは犬鳴川の先発部であり、海へのつなぎの部分である。このつなぎの入江・湿地等の部分は飛鳥・奈良・平安時代となり、上流よりの土砂等で少しづつ干陸化されていった。この事は町誌や地名考等で記されていることなので割愛する。











 
 「古遠賀潟」について
    宮田町史(上巻)より
 ※ 本資料は本HP作成者追加
 遠賀川は縄文時代「古遠賀潟」と呼ばれる湾を形成し、人々は、その沿岸周辺に生活の場を築いていた。そのことは今も遣る多くの貝塚の存在によって明らかである。貝塚は当時の人々が食用とした只の殻を捨てたところで、貝の殻に伴っ・て土市等の生活用具も出土し、縄文文化の解明に大きく寄与する遺跡である。
 遠賀川流域の貝塚としては、(中略)、距離的に最も近い貝塚として天神橋貝塚がある。この貝塚よりはシジミを主としてカキ、ハマグリ、サルボウ等の淡・鹹水産の貝類の穀が出土しており、この地が当時海と川の境であったことを示している。
 このように潟を形成していた遠賀川も、海退期になって水が退くとそれに伴って沖積層が形成され、潟はしだいに狭められた。そのため宮田平地付近で湖沼の状態にあった犬鳴川も、この余波を受けて湖沼状態を脱したと思われる。















 2、瀬戸内海航路図(江戸時代初期)についての信憑性とそこから考えられる内容
 この地図は瀬戸内海の様子を示す事を目的としたもので、その中に遠賀川の流れが示されています。あまりに大まかすぎて論点が示しにくいのですが、推測を含あて以下の様に考えます。
 遠賀川左岸の川の流れは河口近くの西川、現在の犬鳴川、
瀬戸内海航路図
勝野近くに流れていたと推測される犬鳴川、小さいが現在の南良津川、建花寺川等です。南良浄川、建花寺川等以下は現在でも小さすぎてこの地図では記入不可能と考えられます。また他の江戸時代の地図を見てもこれらの川は記入されていません。ではこの地図で左岸に二本描かれている河川さらに上流の河川は何に該当するか、と言う問題です。
 藩の境界、皿倉等の北九州の山、福智山等から考えて以下のように考えられます。下流の三角を示す河川は当時乱流をしていた西川と考えられます。上流の左岸の流れは犬鳴川と考えられます。問題は左岸の合流点の位置です。これが犬鳴川とすると、合流点の位置は下流の西川の位置が現在の木月池辺りと考えられる事から、植木よりも上流の、現在の勝野・南良津辺りと考えられます。これが旧犬鳴川が現在新入方向ではなしに勝野・南良津方向に流れていたという推測です。しかし余りに地図が大雑把すぎて判断推測こ苦しむところです。
 3、筑前国慶長国絵図(1600年頃)についての信憑性とそこから考えられ内容 
 この地図の作成方法は従来の地図の作成方法で信憑性もそ
筑前国慶長国絵図(1600年頃)

※本HP担当によって川を青色で塗布
の時代を反映しています。これを見ますと犬鳴川の流れそのままで記されています。流れが新入方向のみ記されていますが、これは当時1600年頃の流れが上記の「結論」で記述の二分していた時と比べて、比較的新入方向の流れが強くなっていた時と考えます。理由は下記の通りです。
@−直方市誌が述べている様に、1763年の洪水で鶴田から小竹方向に洗れていた大川が、新入方向に流れを変えた、との内容。即ち大川は小竹方向に流れていたと言う内容。
A−この時天神橋の現河川の所に在った天満宮を現在の位置に変えたという神社の文書(直方市誌より−1763年頃神社を移転)
B−1656年現在の若宮町金丸から新入方向への灌漑用水路の計画。この計画は1650年頃の二分流の内新入方向の流れが不足していた事を示す。即ち小竹方向に大川か流れていた事を示しています。
C−1656年花の木堰の築造が鞍手郡誌や直方市誌に記されています。この時の流れは二分の流れを利用しての小さい堰と考えられます。
D−現在の様に機械化されていない時代の土木工事・堤防工事を考えると、乱流していた所に、洪水で流れが変わったと考えるのが至極当然と思います。
E−今でも鶴田の所で大川と南良津方向の遠賀川はつながっています。現在でも信憑性の高い言い伝えとして南長津方向の大川の流れが言われています。
F−遠賀川の下流の小牧辺りも江戸時代以前は乱流しており、この乱流を現在の様な流路にしたのは江戸時代の慶長17年(1612年)−寛永4年(1627年)。この事より考えると大川の香井田部分の1750年頃の乱流も当然と思われる。なお福岡県地理全誌および伊能忠敬地図についても、同様に考察し判断します。
 4、香井田村併合記念誌・地勢図(1927)の信憑性について
 現図が不明で多くの疑問があります。また等高線の記入方法は地図こ記されている時(1520年頃)にはなかったということも疑問の一つです。
 考えるところでは、地図の作成者が言い伝えを1927年発行する時地図化したのではないか」と言う事です。ただ私が昭和
 香井田村地勢図(1520年頃)から
  犬鳴川流路変遷図

   ※香井田村併合記念誌(1927年発行)をもとにして
  :〜1620  :1620〜1760
  :1763〜  :現在
28年水害の聞き取り調査をしている時に感じた200−300年前頃の事が比較的この地図にこ残っているという事です。
 これらの事から考えられるのは、この地図が示している通り、大川の二分流です。また粥田橋の先数百mが現在の左岸よりさらに左側を流れています。この記載は正しい記載です。即ちかつて粥田橋より先、大川は今より左側を流れていたと伝えられており、現地の土木工事でも川の流れが確認されています。旧大川の部分の工事をされた三島清氏によりますと、記念誌の示す旧河川部分より川の跡を示す砂利等が工事中確認されたと言うことです。又他の開係者からも旧河川の存在を聞きました。
 その後何年後かわかりませんが、現在位置に大川は移動したようです。この事は一部香井田村併合記念誌の言い伝えの部分的確かさを伝えています。なお併合誌に記載されている家や神社等の地図記載内容の信憑性は、様々な現地土木工事等でも確認されています。
 5、他の江戸時代の地図についての信憑性
 これについては、参考に地図を付すのみにとどめておきます。理由は地図の内容が【3】筑前国慶長絵図(1600年頃)とほぼ同じだからです。ただ村名称や山の記入方法からみて正確さが少し前進している感じです。

【理由2】 河川の流れの特性から
 河川は広い所では、当然の如く蛇行します。その流れは葦等の手入れをしていない沼地や河川ではどこをどう流れているか分かりません。大川の場合役場の所より平地にでた所で生子神社にぶつかります。小字和田の所で、当然沼地・遊水池の中では小高い丘であったと考えられます。この丘に行きあたった流れは当然北と南に二分流します。この二分の流れは若宮等の河川の中を葦(よし、あし)をわけながら歩いてみると実際の河川の流れとして体感することが出来ます。2m近い葦の中では流れは勝手気ままに流れています。またどこをどう流れているかはっきりしないこともしばしばです。
 感じるのは沼地・入江等での河川の流れです。1500年頃の大川も沼地・入江・小高い丘の間を、葦をぬって流れていたという事です。この河川め蛇行や分流れ・広漠たる様子は香井田村記念誌にも文書として記されています。ここに併合誌に見る北と南流れを言い伝えとして筆者は作図したのだ、と考えます。
                                      以上

            文責:本HP担当者 

本編についての問い合わせは、
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