炭坑節のメロディーが流れています。
貝島炭砿が起きるまで 石炭記念館へ |
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写真 : 第一大之浦炭砿竪坑 |
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貝島炭砿操業の変遷(閉山迄) |
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●貝島炭砿の中の,宮田町内だけの従業員数は次のとおりである。 明治35年 7,305人 大正 8年 9,239人「家族 8,277人 合計 17,516人 住宅戸数 4,000戸) 昭和12年 8,830人(家族 16,640人 合計 25,470人 住宅戸数 5,240戸)鑿鑿 昭和19年 10,840人 昭和20年 4,544人 (会社年表草案記載文のみ) ●貝島炭砿は,明治41年頃までの炭坑を大きく四つの鉱山とその他に統一した.それは次の通りである. 1 菅牟田鉱山(一,二,三,四,五坑) 宮田村大字磯光 2 桐野鉱山(一,二坑) 宮田村大字宮田 3 満之捕鉱山(一,二,桐野三坑) 笠松村大字四郎丸,大字長井鶴 4 大辻鉱山(一,二,三,四坑) 香月村大字香月,大字楠橋 5 その他 津波原鉱 粕屋郡勢門相 柚之木原鉱 佐賀県小城郡北多久村 岩屋鉱 佐賀県東松浦郡厳木村 ●その後幾多の変遷を経て,大正13年に菅牟田,桐野,満之浦の三鉱山を一括して大之浦炭鉱と称し,閉山時に近い一,二,三,四,五,六,七,八坑とした. また,宮田以外では,大辻炭鉱,岩屋炭鉱となる. 昭和12年には,北支(河北省せいけい県崗頭村)のせいけい炭鉱の管理という事で,海外にも進出している。 ●戦後,昭和24年には,二,三,東三,五,西五,六,七,八,毛勝坑の9坑となった。 (写真:貝島炭砿2坑1.2区、現在の杉坂B&G付近 昭和25年頃の撮影です。) ●昭和25年5月には,東部大之浦開発工事の中央竪坑開坑鍬入式が行われ,昭和28年12月に完成し,三坑,東三坑を合併し「新菅牟田坑」が発足した。 (中央竪坑・・・直径6m、櫓54m,深さ430m.第一,第二水平坑道4,830m。年出炭目標60万トン) ●石炭から石油へとエネルギー革命により,昭和38年に第五次合理化があり, ・二坑,五坑の第二会社移行 ・竪坑の黒字体制の確率 ・露天掘安定収益確保 ・人員整理(砿員2,292人、職員312人、合計2,604人) が提案され,二坑が第二大之浦炭砿,五坑が菅牟田炭砿,六坑が満之浦炭砿という第二会社へ移行し,大之浦炭砿は,新菅牟四坑と露天掘のみとなった. この合理化により,貝島炭砿の従業員は,全盛期1万人前後いたのが,昭和39年には、約2,600人となった。 彼らは新天地を求めて東京都,愛知県,大阪府,岡山県,広島県等太平洋ベルト地帯・地域へ,家族共々再就職し,宮田の地を離れていった。 ●これで宮田町の人口も激減し,町内の小・中学校も転校生が急増し,小学校では,大之浦小学校,菅牟田小学校と緑ヶ丘小学校の3小学投が統合され,宮田小学校となり,満之浦小学校は廃校となり,児童は笠松小学校へ通学した. また,中学校では、大之浦中学校と宮田東中学校が統合され,宮田光陵中学校となり,町内小・中学校は12校から8校へと減少した。 ●昭和42年には第二会社であった菅牟田炭砿(旧五坑)が1月に閉山し,4月には満之浦炭鉱(旧六坑)が閉山。また,昭和46年には第二大之浦炭砿(旧二坑が閉山した。 ●その後,昭和48年11月には,大黒柱であった新菅牟田の竪坑も終結し,筑豊炭田における坑内掘は,この竪坑を最後に姿を消した.(昭和26年の炭鉱数は,全882、九州473、筑豊265であった。) (貝島露天掘り:昭和46年3月撮影、旧大之浦中学校前と思われる) ●そして,最後のたのみの綱であった露天掘も,昭和51年8月に中止し,貝島炭砿は,明治18年から91年間続いた石炭採掘も終止符を打った。 ●宮田町も工場団地を造成し,工場誘致に力を入れ,現在,トヨタ自動車(従業員約2,000人,東芝(従業員約1,000人)等数社が稼倒し,新しい宮田町に変わりつつある。 |
年(昭和) |
砿員在簿数(人) |
出炭実績(トン) |
備 考 |
24 |
9,657 |
830,350 |
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25 |
9,143 |
863,050 |
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29 |
7,710 |
1106,900 |
竪坑操業 |
31 |
6,856 |
1198,503 |
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34 |
6,894 |
1325,026 |
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36 |
5,525 |
1385,372 |
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39 |
2, 610 |
1409,000 |
合理化後の 第二会社も含む |
43 |
1,180 |
1141,200 |
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48 |
359 |
663,508 |
坑内掘終了 |
51 |
7 |
34,698 |
完全閉山 |
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