昭和47年に旧宮田町下有木から内山に抜ける平山での製材所拡張工事の際に、

里道の側にある草の茂み中の大きな石下に消し炭にくるまれた状況で発見されました

(炭は埋納時に腐敗防止のため使用されたものと思われます。本HP担当者)

それを紹介しましょう。





平山出土 経筒:銅鋳製で総高29cm、身高24.4cm、口径7.7cm、底径9.9cm、蓋高5.2cm、蓋径6.8cmの円筒径



経筒から出た経巻

以上の写真は、旧宮田町役場HPから編集
〔左写真:平山出土経筒及び経巻〕
 
 筒身に銘文が鏤刻されており、筒の中には経巻5巻が納められています(左下写真)。
 現在は宮若市石炭記念館に保管されています。
(宮若市石炭記念館庭にある平山出土経筒の案内板)

 また、この平山地区からは大正5年にも他の経筒が発見されているとのことですが、現在の所在は不明となっています。
 
〔解説1〕 経筒とは 1
 経筒とは経典を埋納する際に容器として用いたもので、鉄製、銅製、石製の他、陶磁器製、木製などがある。埋納場所は高く土を盛り上げる例が多く、「経塚」(きょうづか)と呼ばれる。納められた経巻は埋納者自身が筆写している場合も多い。たいていは炭化して開くことが出来ない状態になっている(上写真)。
 経典の埋納は平安後期に流行した末法思想(右記)に基づいている。末法とは仏滅後二千年に訪れると言われる悪世で、世は混乱を極め仏の教えは滅亡すると信じられた。その時地中にあれば失われることがないだろうと埋納したものである。後世の為を考えただけではなくて、そのような善行を積むことによって埋納者自身も悪世から逃れて極楽に往生しようと考えていたことが経筒に残された銘文などから窺える。 
 経塚の築造は全国各地で行われたが、とりわけ、近畿地方と九州北部に多く見られる。これは末法思想と埋経が天台宗の教えに基づいて発達したからで、この勢力が強い地域に集中したもの。とりわけ九州北部の埋経は天台宗と習合した宇佐八幡宮の影響下に、修験道の山岳信仰と結びついて独自の展開をみせる。福岡県の英彦山(ひこさん)、大分県の求菩提山(くぼてさん)などで多くの経塚が発見され、見事な経塚遺宝が多数出土している。
 経筒とは、元来教典を写経して山頂などに作った小石室に埋納する一種のタイムカプセルの器であって、これらのものを含めて経塚と言う。
 経筒は平安時代に始まった末法思想の一環として埋納されたもので、山岳修験道の山々から多く発見されている。
(参考:パリ帰りのはにわたちHPから)

〔解説2〕 末法思想とは
 仏教における一種の歴史観。釈迦の入滅後千年または千五百年、あるいは二千年後に仏法が衰え社会に混乱が起こると考えたもの。わが国では平安初期すでに現れているが、仏滅年次を周の穆王五三年とし、仏滅後二千年とする考えが固定した平安中期から鎌倉期にかけて流行し、法然・親鸞・日蓮等による新仏教の基盤となった。

出典:Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition)  Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版) 小学館 1988
〔解説3〕 経筒とは 2
 経典を納めて経塚に埋める円筒形容器。高さ二〇センチメートルぐらい、多くは銅製で、鉄、陶、石製もある。

出典:Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition)   Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版) 小学館 1988