水害体験に学んだ高校生



フローチャート : せん孔テープ:  先に昭和28年犬鳴川大出水体験集1を掲載していましたが、本HPを用い福岡県立鞍手農業高校の2学年において、同校教諭澤田憲孝氏による社会科授業「ふるさとの災害を考える」が実施されました。
 その授業の過程に於いて、「自然災害への心構えの大切さ」を訴えた授業の感想文を澤田先生から10部の力のこもった素晴らしい感想文をご提供いただきました。
 ここに、それらすべてを掲載し、私共も生徒たちの真剣なまなざしに溢れた感想文に目を通して、これからの災害に備えましょう。


 昭和28年犬鳴川大出水体験集1 




「私の進路を変えた」を読んでの感想
       16番 児玉 悟
 渡辺貞利先生の体験談のページを読んでみた。昭和28年はもちろん僕は生まれてなかったので知らなかった。でも昭和に大洪水が直方などであった事を授業や澤田先生のお話を聞いて少し知っていた。
 授業で宮田町のホームページを見て渡辺先生の体験談を見てすごく驚いた。1953年、遠賀川堤防左岸「直方〜芦屋線」植木中島橋より下流八百米の地点の堤防が集中豪雨によって破壊されてしまったらしい。堤防はある程度頑丈に作られているはずなのに壊れるなんて自然の力は、とても怖いと思いました。
 話によると犬走り付近に小さな穴ができて崩れていったらしい。渡辺先生は当時鞍農を卒業して農家を継ぐはずが洪水で田んぼが台無しになってしまったらしい。洪水の時先生は堤防に避難して母親のことが心配になって家に帰ったらしい。家に帰ると母が雨戸を閉めていて先生は急いで手伝った。先生はまた堤防に避難した。途中水が膝の下まできたと語っている。
 僕の家も洪水で玄関前まで水が浸かって膝ぐらいまできた。僕の家はすぐ横に福地川が流れていてそれが氾濫した。普段福地川は水があまりなくて川が氾檻するなんて考えられない。堤防も結構高くて氾檻なんてしないと思っていました。家を出ると水が玄関まで来ていたのでびっくりしました。でも今、福地川は、ダムの水を流すため川の幅を広くして整備されている。でも自然は怖いので忘れた頃にまたやってくるかもしれないので用心が必要だと思いました。渡辺先生は水害にあって大変だったと思うけど水害にあった時の自然の怖さや水害の時の努力や苦労は役に立ったと思うしこれからも役立っていくと思います。
                     

渡辺先生の「私の進路を変えた」を読んで
     22番 世良 一樹
 1953年[昭和28年]6月26日遠賀川堤防左岸のあたりで起きた水害は、とてもとても危険だな〜とかんじました。それに、逃げているときに水が膝のあたりまで水位があがっていると書いていました。でも自分ではそんな体験したことがないので自分の頭の中で想像してみると背中のあたりが、ぞ〜〜つとしました。それに救助活動が始まるまでに2時間もたっていて、50年も前だからヘリコプターもそこまで人は乗れないだろうし・・・それに堤防にはたくさん人がいただろうし・・・救助隊の人もたくさん人がいて目が回るほどの忙しさになっていたと思います。しかも、しかも、家の中からなんと赤ちゃんの泣き声が・・・・進駐軍がゴムボートを出し三人が乗り込み家に行くと・・・・そこには人間の赤ちゃんではなく、山羊の声ということが判明しました。
 次の日の6月27日水位が減少したので昼頃には家に帰れたそうです。しかし、水の害は激しく家に大きな害をもたらしたそうです。それはそれはすごいそうです、畳は浮き上がり壁をみてみると床上2米位の所に黒ずんだ水嵩線があったそうです。これもまた考えるだけでぞぞぞ〜〜としました。その日は避難先の植木小学校に戻って一夜をすごしたそうです。
 そして次の日6月28日またもや雨が降り水嵩があがったそうです。畳などの水を吸い込むような物はもう水が浸透する余力も無いので、さらにさらに害は大〜〜き〜くなっていたそうです。自分が思ったことは、水害があった地域の人達はものすごく落ち込んでいるだろうな〜・・・と思いました。でも、みんなそんな顔は見せずに植木中にいたと思われます。
 時は流れて6月30日水かさも下がり道や田んぼがみえてくるようになりました。しかし、田んぼを見ると砂の山が何カ所も・‥・みえたそうです。それに、池のような物が何カ所も何カ所もできていたそうです‥・道路もえぐられ通行が遮断田んぼの3/2位の2位の表土が流され、流れのよどみの場所にギロ、砂が山となりこうさくふのうに・‥家に帰って見てみるとギロが床上30cm位あり家財道具はバラバラになっていたそうです。
 僕たちが知らない昔の出来事をこんなふうにに知ることができ、身近な友達にも話せることはとてもすごいことだと思います。50年前のこのような災害、昔のいろいろな災害このようないろいろな災害に巻き込まれた人達の苦しみなど、これからももっともっとがんばっていろんな災害を知っていきたいと思いました。

  

渡辺先生の「私の進路を変えた」を読んで 
        15番 古賀正樹
 昭和28年の水害を経験した渡辺先生の体験談ですが、僕たちは今までにそんな経験をしたことがないので理解するのは難しいことかもしれませんが、自分なりに考えて感想を書いてみました。
 昭和28年といえば僕たちが生まれるかなり昔のことのように思えます。しかし、そのような時に今、僕たちが住んでいる身近な地域でこのような事があったというのは正直驚きです。この文章を読んでいるとこの災害の凄さがわかるような気がします。たぶんこんなに水が迫ってきたらとてもおそろしいだろうとおもいます。
 戦後最大といわれるこの大水害の被害は、この文面からもよく見て取れますが本当に多くの被害の爪痕を残し渡辺先生をはじめ多くの人に降りかかり被害を及ぼしました。
 話は変わりますが、僕は川の近くではなく山の方に住んでいます。そして平成11年の大雨の時に家の裏山が土砂崩れをおこし、後もう少しで家が巻き込まれるという経験をしました。しかし、川の近くに住んでいた先生はもっと恐怖だったのではないかと思います。家や大事な靴まで被害にあってこれで先生は進路を変えざるを得ない状況になってしまった、自然の恐ろしさを痛感させられる出来事だったと思います。この災害で亡くなった方もおられるということですが、時に水は人の命を奪いかねないということを再確認させられました。しかし、僕たちは水とうまくつきあっていかなければなりません。そのためにも今、水利を勉強して役立てたいと思います。


渡辺先生の「私の進路を変えた」を読んで 
         35番 藤井 仁
 渡辺先生の「私の進路を変えた」を読んで、まず思ったことは、「渡辺先生がよくこんな昔のことを覚えているな」と思いました。
 1953年6月26日、堤防がもぐら穴みたいな小さい穴から決壊に繋がるなんて・・・・・・。「堤防は小さな傷でも致命傷になるんだな」と思いました。昔は、今ほどヘリコプターなどでの救助が発達していなかったと思います。でも、この状況でこういう風に、落ち着いて救助活動ができるなんてすごいと思いました。赤ちやんを救助しようと思ったら、山羊だったなんて・・・。そんなことがあるんだな〜と思いました。
  6月27日、家に帰ったら、決壊箇所より五百米位でまともに激流を受けた所なのに家屋が流されなかったと書いてありました。頑丈だったんだと思います。
 6月28日、「前日の雨量より激しかったといわれている」と書いてありました。水嵩もさらにあがったそうです。そして、被害も大きくなったと書いてありました。「乾燥のため、家財の一部を外に出していたのが二次豪雨によって流され、樹木にひっかかったり、木が折れたり、水路を塞ぎ被害を増幅させました」と書いてありました。乾かすために外に出しただけなのに、それがかえって被害を増幅させたなんて、「なんて皮肉なことだろう」と思いました。
 6月30日、水嵩が下がり町道や田面が見えるようになったが、砂の山が何箇所も見えて水溜まりが何箇所も出来ていたと書いてありました。道路もえぐられ通行が遮断されている所が何箇所もあったそうです。やはり、「被害の足跡はそう簡単には消えないんだなあ」と思いました。
 災害復旧工事の方も急ピッチで進んだそうです。復旧作業はかなり大変だったと思います。
 僕たちが知らない過去のことを、こうやって知ることができるってことは、すごく素晴らしいことだと思います。昔の人の苦しみや、起きた出来事をもっともっと知りたいと思いました。そして、こういう事があったということを身近な人などに伝えていくことが大切なんだと思いました。
       

 昭和28年大出水体験
      11番 織田 正裕
 (前略)
  1953年(昭和28年)6月26日遠賀川堤防左岸(直方−芦屋線)植木中島橋より下流八百米の地点で、堤防が前日からの集中豪雨によって決壊したそうです。その原因はえぐり取られて決壊したわけでなく、犬走り付近のモグラ穴みたいな小さな穴からみずがふきでて、大きな穴になり決壊につながったそうです。小さな原因でこのような大水害になるとは本当に自然は恐ろしいと思います。
 平成11年に大水害が起きました。そのときは前日の夜に雨が降り朝にはやみ、曇っていました。しかし普段の曇りとは何かが違いました。そのとき僕は学校に
平成11年集中豪雨によって宮田町如来田の「大道つつみ」崩壊現場
いました。教室の電気を点けないと暗くて授業ができないくらいでした。一時間目の授業が終わりかけたくらいに雨が降り始めました。日中なのに外は真っ暗になっていました。そして雷まで鳴り出しました。雨は時間を追うごとに激しくなっているように感じました。雨音が教室まではっきりと聞こえるくらいまでになりました。四時間目が終わり、職員会議が行われて、生徒全員下校することになりました。僕たちは学校が高台あったのでどれだけの雨量があったのか、どれだけの被害があったのか想像もつきませんでした。先生の話によると学校の下の道が完全に浸水しているとのことでした。ワゴン車が浸かっていると聞いた時は、声を出して驚きました。僕の家は多少高台にあったので、さほど心配はいりませんでした。家に帰り、家にいた母に聞いてみると、家の配水管が詰まっていたのも重なり、あふれ出していたそうです。僕の住んでいる団地周辺はさほど被害という被害はありませんでした。しかし、福岡の都心部では地下にいた店の人逃げ遅れ、犠牲になり死者一名を出してしまいました。
 時代は変わってもこの水害はなくなることはないと思います。大事なことは、いかに水害に対して関心を持ち過去に起きた大水害のことを忘れてはいけないと思います。


 渡辺貞利先生の「私の進路を変えた」を読んで
         25番 田中 秀明
 今日、渡辺先生の「私の進路を変えた」を読みました。この文には、昭和二十八年六月二十六日の大水害のことや、そのときに渡辺先生が、どうゆう行動をとったか、その後どうなったかが書いてありました。この文を読むと、その大水害の凄さが、よく分かりました。この水害は、前日からの集中豪雨によるものだけど、水位が増して堤防の肩からえぐり取られたのではなく、犬走り付近にあったモグラ穴みたいな小さい穴からの水の吹き出しによって、その穴が次第に大きくなって決壊になったということだったので、「堤防にとっては、ほんの小さな穴でも大水害につながるような傷になってしまうのだ。」と改めて思い知らされました。
 この水害が起こったとき、渡辺先生は、決壊場所から直線にして約六百米位の場所で、牛を連れて農作業をしていたそうですが、母親が急いで知らせにきてくれたので、牛を連れ、堤防の上に避難したそうです、しかし、母と家のことが心配になり飛んで帰ったそうです。そして母親と一緒に家の戸締まりをし、卒業祝いに買ってもらった革靴を濡れないように下駄箱から出し床に上げたそうです、ここを読んだ時、「渡辺先生は、この革靴がよほど大事だったのだろう。」と、思いました。その後、母親といっしょに決壊場所から三百米下流の堤防に駆け上がるように逃げたそうです。逃げている途中水は膝まで達していたそうです。その後も水位は上がり家の軒下〇.五〜−米位まで上がったそうです。
 避難してから二時間ほどすると、進駐軍のヘリコプターのジープが来て、無線で連絡を取りながら救助活動を始め二名が救助されたそうです。その他にも、家の中から赤ちやんの声がし、進駐軍がゴムボートを出し、三人乗り組んで助けに行ったけど、声の主は山羊だったので渡辺先生は、ほっとし、進駐軍の行動の早さに驚いたそうです。
 次の日の昼頃には、水位も下がったので、家に帰ってみたそうです。家の中に入ると、家具は動いて倒れていて、壁の床上二米位のところに黒ずんだ水かさの跡がついており、この水害の大きさを表していたそうです。革靴は、流されてなくなっていたそうです。その他にも道路はえぐられ、通行できないところがあったそうです。
 そして、先生の人生を変える出来事とありました。家の田畑の土が流され、農作業はできなくなっていました。先生は農家になるつもりでしたが、家族と話し合い就職を選んだそうです。これが先生にとって、よかったかどうかは分からないけど、この日は、先生にとって忘れられない、そして先生の人生の中の大きな分かれ道となったんだと思います。


 「私の進路を変えた」を読んだ感想
       2年 酒井 諒太

 当時、渡辺先生は家の家業を継いで農業にせいを出していたらしい。しかし、1953年6月26日に植木中島橋よりも下流800メートルのあたりで堤防が決壊しました。
 河川工事が進む今では考えられないことでしょう、当時18歳だった渡辺先生は、堤防が決壊したと聞き母のことと家の心配になり、家に戻ったそうです。
 そのあと、卒業祝いの革靴を下駄箱から出して床にあげていましたが、洪水の被害で見事に流されていたそうです。
 僕たちは、そのころの頃は生まれてすらいないから、どんな風になっているのかは想像もつきませんでしたが、澤田先生の見せてくれた写真や、渡辺先生の「私の進路を変えた」を読んだりして、だんだんそのときの様子が頭の中に浮かんできました。
 僕だったら死んでるかも、救助活動もあったらしく上空には進駐軍のヘリコプターが水難の状況を偵察し、屋根の上の人たちを救助していたらしく、地上では、進駐軍がゴムボートを出し水没した家の中に入っていったりしていた。中には山羊が居たそうです。
 6月27日、水量が減少し昼頃に家に帰ってみると、畳は浮き上がり箪笥は倒れて元の位置ではなく、家の隅に動いていたらしい。床上2メートルほどまで水位の跡が残っていたそうです。
 6月28日、前夜の雨と午前中の豪雨(前日の雨量より激しかったといわれている)により、水位がさらに上がり前日の雨量で、地中に雨が浸透する余力がなくなっていたので、直接水量が上がり被害が大きくなった。乾燥のために外に出していた家具はすべて流され、木にひっかかり、木が折れたりして水路をふさぎ被害を増幅させました。
 6月30日、水位が下がり、町や田がみえるようになり渡辺先生が家に戻ると、家の中はめちゃくちゃになり下駄箱も移動していた、本人いわく「革靴は下駄箱の中に入れておけばよかった。」と思っていたらしい。
 渡辺先生がまた農業をするには、4〜5年かかるらしくそのため教員になったらしい。この文章を読んで、僕はとても驚きました。テレビなどでそういう話は聞いたことがありましたが、こういう文章を読んだことはあまりなかったので、衝撃はかなりありました。


 私の進路を変えた」を読んでの感想
       36番 前原 弘樹
 僕は渡辺貞利先生の体験談のページを読みました。
 1953年、昭和28年、その時僕はまだこの世に生を受けていなかった。その当時直方などいくつかの町でものすごい大洪水あったらしい。そのことは授業や澤田先生や他の先生などから聞いて、その時生まれていない僕も少しは知っていました。けれど、ものすごいといってもそのとき生まれていなかったので、よくわかりませんでした。そんな時に渡辺貞利先生の体験談のページを見てびっくりしました。
 1953年、昭和28年に植木中島橋より下流八百米の地点で、前日からの集中豪雨によって決壊したらしい。話によると、決壊の状況は水位が増したことによって堤防の肩からえぐり取られて崩壊したのではなく、犬走り付近のもぐらの穴みたいな小さい穴から水が吹き出て、大きな穴になり決壊に繋がっていったらしいです。
 当時渡辺貞利先生は18歳で、鞍農を卒業した年で、農家の後継者の一人で農業に従事していたそうです。その頃農家では、田植えの準備として田地に水をはり、牛馬で代掻をしている最中だったそうです。
 午前9時半頃にお母さんが飛んできて堤防が切れたので土手に上れと大声をだして叫んでいました。これは大変だと思い牛を連れて堤防に避難したそうです。しかしお母さんのことと卒業祝いに買ってもらった革靴が気になり、ぬれたら大変と思い、下駄箱から出して床に上げ、急いでお母さんと一緒に走って堤防に駆け上がるように逃げたそうです。その時水は膝のところまできていたそうです。
 僕は、そんな経験をしたことがないのでこの体験談を見てとてもびっくりしました。この体験談を見たことはこれから役に立つと思います。


渡辺先生の「私の進路を変えた」の感想
        32番 中村 征太
 僕は渡辺先生の「私の進路を変えた」を見て、僕も若宮で大雨を経験したので何となく言ってることが分かりました。
 僕の場合は家の後ろの土砂が崩れてきて、溝が埋まったり風呂の水が出るところに土が詰まって水が抜けなくなったりしました。ぼくはあの日学校に行ってて二時間目ぐらいにお母さんが学校にむかえきて「親戚の家に行く」と言ってすぐに帰りました。その時学校の中は一階の階段の半分ぐらいまで水がきてました。僕は、それを知らずに階段を降りてしまって上靴がずぶ濡れになってしまいました。
 この写真は鉄橋が冠水してしまった写真です。ここまで、すごい水害はなかなかないと揮田先生から聞きました。若宮の水害では道路が壊れてしまいました。それで、日吉の人たちは大分遠回りして学校にきていたそうです。
 僕は、乙野の親戚の家にいたので学校には苦労せずに行けました。とりあえず家からは大事な物だけとりに行って一週間くらいは、親戚の家にいました。水害の時は本当に怖かったです。
 渡辺先生もやっばり怖かったとおもいます。自分の家が壊れたりしているのを黙ってみているのはとても、くやしかったと思います。こんな事がこれからないように願うしだいでございます。


「文を読んでの感想」
       2年2組  10番  小川 雄司
 僕は、この文章を読んで、思ったことは、水害がどのくらい激しかったのか。そして自然破壊がどんなに不幸なものなのかと、この文を読んで分かりました。
 ぼくの経験上、大雨などで堤防を越えてくるような災害はあまりなかっといいてもいいです。もし、このような大きな被害が溝堀や下境などで起こったなら水害を経験したに違いないと思います。この文を読んでいくうちに水害がどんなものなのかを想像していくにつれて自分がその場にいるかのように想像がつきます。自然被壊はとてつもなく怖いものです。自分はそういう経験をまだしていないからこんな顔でいられるのではないかと思います。

 この学校にも水害を経験している先生が一人います。その教師は、1953年「昭和28年」に一回水害を実際に経験をして被害に遭っているお方です。その人の経験上、集中豪雨(大雨)により自分の家内の中まで水が入り大変苦労をしていることも詳しく文中にかいてありました。もし僕の家にも水が入ってくるとならばよほど大量水が入ってきているとおもいます。自分の地区が川と川に挟まれているのでいつ起こるのか全く分からないと思います。
 最後に、この文を読んで本当によかったことは水害のことをあまり知ることのなかった僕が文を読んでいくことにより自然破壊の恐ろしさを間近にみているのではないのかと思います。僕がこの災害を経験しているとしたならば、ほかの世代の子供に水害の恐ろしさを知り、そして理解をしてほしいと思います。