鳴御別館跡

〜幕末の歴史悲話を込めて佇む〜


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上の御別館模型は、宮若中央公民館若宮分館に展示されています。

 最上図は、犬鳴御別館及び犬鳴製鉄所をも造った加藤司書の肖像画です。その右図は明治初めの頃、 左図は昭和三十年頃に描かれたものです。加藤司書は、当時の福岡藩の家老で、福岡藩のリーダー的存在でした。この方が犬鳴に思いを寄せて、犬鳴御別館を建てたのです。
 その建設の背景は、皆様よくご存じのように、江戸時代の末期は、外国から攻めに晒される脅威が増しました。また、その時期、長州藩と幕府の戦があるなど、江戸の世が揺れ動いていました。とくにこの御別館を思い立った頃は、長州・薩摩の藩が江戸城攻めに北へ進軍している頃でした。その折、西郷隆盛と勝海舟とが話し合いを持ち江戸城攻めは止み、江戸幕府は、一応の安泰を保つことになったようです。しかし、その後、東北の方の会津藩などが反発し、戦いは東北・北海道へと移っていくのでしたが、官軍はそれを打ち負かし、明治の世の幕が開かれていくのです。
 そのような時代ですから、福岡藩は、お城も現在より更に近い博多湾の海際ですから外国船からいつ大砲などで襲われるかわからない恐怖を感じるようになってきました。そのようなとき、加藤司書たちは有事になったとき、殿様を匿うための「逃げ城」を必要であると、進言するのでした。その折、犬鳴に製鉄所を造った後だけに加藤司書は、その犬鳴方面の地形等に詳しくなっていました。犬鳴地区は、周りが山に囲まれているため自然の軍事上の要衝になると考え、御別館は慶応元年(一八六五年)に建設が始まりました。
 次の写真(御別館の模型)では、手前が御別館の入口の門であります。裏門もあります。現在、これらの階段はきれいに残っています。
 ところで、平成十年、隣の久山町のある方が「我が家に残されていた絵図は御別館の絵図ではないか、お調べを」と、絵図の調査依頼がありました。それはまさしく御別館の設計図ともいえる素晴らしい貴重な絵図(下図の「福岡藩犬鳴御別館絵図」)でした。       (下に続く)



 上図がその「御別館絵図」です。それはお殿様が生活する館の設計図です。庭には池などもあります。下側の広場風に見えるところに、足軽という兵隊さんが寝起きしていた長屋の図に薄く見えます。それには武器などの倉庫もありました。野外のトイレもあったのです。それは上図の「藩主館の見取り図」での館の左にも見えます。また大手門の入口に番所がありました。
 これらは今残っているその辺りの地形とこの御別館絵図がぴったり合います。お宮も造られていました。現在もその跡が残っています。
 この造営の頃の福岡藩は、新しい世を造ろうと天皇親政を目標として政治運動をした「勤皇派」と幕府の政策に同調・存続を願った「佐幕派」という二つの派閥がありました。加藤司書は勤皇派でした。それに対して、福岡藩の佐幕派はいろんな攻撃をかけてきたのでした。その中で犬鳴御別館事件が起きたのです。佐幕派は加藤司書たちが、ときの藩主を幽閉し、藩主の子を藩主に据え、勤皇派の中心の黒田藩にしようと企んでいると藩主に進言するのでした。黒田藩は徳川幕府の譜代大名の流れでしたので、御別館建設真っ最中の慶応元年、藩主は、加藤司書及び勤皇派二十四名を捕え、ほとんど処刑しました。こうして加藤司書は三十六歳の若さでこの世を去りました。
 その時、犬鳴御別館はまだ建設途上でしたが、中止することなく、今後の外国との脅威に備えるために建設を継続しました。一年ほどで完成しましたが、「犬鳴御別館」という名を「犬鳴御茶屋」という殿様の休憩所という形で御別館は完成しました。
 しかし、藩主長知が明治二年に立ち寄ったという記録はありますが、その後、荒廃が進み、明治十七年の大風雨により倒壊し、御別館は終焉しています。これは、まさしく福岡藩が日本の政治において一定の地位を失ったという象徴でもありました。
 その御別館の模型は、宮若中央公民館若宮分館ロビーに展示されています。いつでも見学できます。 以上

上記資料は、小方良臣氏提供資料及び若宮町誌上巻より本HP担当者が構成しました。

犬鳴御別館道行案内‥宮若市犬鳴ダム(JRバス博多直方線)の左周りの奥です。
乗用車可、降車徒歩10分ほど

当図は、犬鳴ダム側掲示板を利用しました。




お楽しみ「しつもん」コーナー

○当初御別館造営の中心人物は誰でしょうか。
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○ダムに沈みましたが、この歴史に因んだ地名がありました。それは何でしょう。
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○犬鳴山はどの市にあるのでしょう。 
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○加藤司書は、何という幕末の派閥に属していたのでしょうか。
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