<ねらいは>
 江戸時代幕末になると、日本国のほうぼうで外国船の脅威に晒されるようになりました。とくに海を目の前にした福岡城を天守閣を持つ福岡藩はそれを憂えて、外国船に対する防御のためにまず大砲をつくろうとしました。その鉄を確保するために、時の家老加藤司書は、犬鳴山の中に製鉄所をつくろうと提言し、この製鉄所が造られたのです。この写真がその精錬所跡です。
 これは、その後明治に入り八幡製鉄所ができる30年ほど前でしたので、これは凄いことです。そう思いませんか。
<なぜ犬鳴に>
 ところで、何故、この山深き犬鳴に精錬所を造ったのでしょうか。ましてやその鉄の原料、すなわち砂鉄はどこでとったのでしょうか。古来の鉄の作り方は砂鉄を木炭で焼くことによって鉄の塊ができます。その砂鉄は、福間、和白、津屋崎の海岸に特に多くとれました。それから木炭は福岡藩の中で最も多く生産されていたところは犬鳴地区でした。そこで、木炭を海岸まで運んだ方が良いのか。逆に砂鉄を運んだほうが良いのか考えてみますと、木炭は軽いが、容量が大きくなります。砂鉄でしたらその逆です。そこで、犬鳴に製鉄所を造り、そこまで運搬が容易な砂鉄を犬鳴まで運ぶようにしようとして、犬鳴に精錬所ができたのです。
 <工程など>
 その工程ですが、一つの炉で砂鉄と木炭とを交互に重ねて燃やしていきますと3日間ほどで鉄の塊ができます。上の写真では手前に水槽(四角い穴)があり、そこへ、熱い鉄の塊を入れ込み一気に冷やします。そこで冷やした鉄の塊を、犬鳴川を利用して木屋瀬(北九州市)まで舟で運びます。その木屋瀬でよい鉄と悪い鉄とを選別し、福岡城近くの中州の製錬所まで運び、そこで鉄砲、大砲や弾などを作っていました。上の写真では、上方の部分が炉です。
 参考までに、右下図のようなこうした大がかりの工場を造りました。左上図は、たたら(大型のふいご)や炉の仕組み図です。
<職人は>
 さて興味深いことを説明しましょう。犬鳴の人が言い伝えている「ロジン墓」というお墓があります。そして犬鳴の人は、江戸時代の終わりに今の島根県である石見(いわみ)の国から鉄の職人さんが犬鳴に来て、鉄を造った人々のお墓と言い伝えています。たしかにそのいくつかの墓には戒名が刻まれ亡くなった年号が見えます。文久元年(1861年)などとあり、江戸時代の終わりに鉄を造っていた時代であります。実は、加藤司書は、鉄を造る村がたくさんある石見の国に出かけ、村ごと人々を拉致して、10年近くこの犬鳴で鉄の生産をさせたと言われています。確かにこの墓は子供であり、子供も共に来ていることがわかります。家族ごとここで生活したがうかがえます。この犬鳴で鉄を造られなくなったら職人さんたちは唐津の方へ移動してそこで鉄を造るようになったそうです。以上で犬鳴精錬所物語は終わります。次は御別館悲話物語です。乞うご期待!


<場所>
 犬鳴ダムより奥に「犬鳴御別館」がありますが、ダムに注ぐ川をはさんで当館の真向かいに製鉄所跡はあるそうですが、保存のため、5m深く埋められていて、現認することはできないとのことです。

  

以上説明資料は小方良臣様からご提供受け、本HP担当が構成しました。