山口八幡宮正面鳥居・参道

社殿(前:拝殿 後:神殿)


 
  山口八幡宮の「由緒」など (HP「正見行脚」参考)
          

 西暦1100年頃、当時の山口村には、神社が必要と村の有志33人が一山超えて宗像神社にご神体を分けてもらい、今の山口八幡宮が生まれたとのことです。では、まずは、本神社の境内からご案内しましょう。

 一の鳥居~三の鳥居
 「山口八幡宮」(宮若市山口1580)は、西山(標高644.6m:鮎坂山)の北東丘陵の最末端部に位置する低丘陵上にあります。
 その最末端部(山口八幡宮の右側)の斜面に「山口八幡宮社務所」(宮司宅)があります。
 道路に面してその端に建っている「一の鳥居」(上右写真)(昭和3年11月吉祥山口村山口區産子中建立)は、大きな「石造明神鳥居」で、ここから境内の参道を見上げる(上左写真)と、ほぼ一直線に上る石段と二つの「石造明神鳥居」が見えます。
 「一の鳥居」のすぐ後ろに、小さな溝川に架かる小さな「石橋」(5枚の板石を並べたもので風情あり)があり、外柵(石垣と玉垣)の中央部分にある3段の石段を上ると踊場があり、この先からまっすぐ上る全61段の石段があります。
 「二の鳥居」(昭和9年正月吉祥建立)は、この石段の上り口に建っています。
 「三の鳥居」(昭和11年8月吉祥建立)は、ここから53段上った石段の途中に建っています。
 表参道のこれら三つの石鳥居は、すべて昭和初期に建てられたものです。
 さらにここから8段上ると、手水舎や社殿(拝殿、神殿)等が建つ丘陵上の境内広場になります(左上及び左写真)。


 この広場は、拝殿において神楽を催すときの観覧場所です。昔、郡内の各神社において、神主さんが集まり毎年舞ってあったとのこと。現在残っているのは鞍手の「室木神楽」だそうです。
 戦後になりますが、かの筑紫美主子(ちくしみすこ)さん率いる「佐賀にわか団」も毎年演じられていたとのこと。
     ※拝殿と神楽殿を兼ねているのは珍しいそうです。
社殿(拝殿)内部


拝殿内部における置物・飾り物等

 拝殿の中の前面に「敵国降伏」という、おどろおどろしい文字が書かれていました。
 それを尋ねていましたら、拝殿の奥から、左枠のような縦1.5m、横40㎝ほどのでかい「敵国降伏」の縦看板を出されてきました。
 それには「日本三大八幡宮」の一つとされ、鎌倉時代の蒙古襲来を退けたという伝承が残されている福岡市の筥崎神社から手渡されたものだそうです。その時期は不明とのことでした。
主な絵馬ど
 左の絵馬は、当時の江戸の桜田門の近くの福岡藩の下屋敷の絵図です。井伊大老の屋敷は間近にあったそうです。

 こうした絵馬は、県下ここを含めて、福岡市の鳥飼神社、早良区の脇山神社など、3つほど存在するそうです。そのうち脇山のは,人や馬など行き交っている絵馬だそうです。


 その絵馬の右下に、下写真の旧若宮町文化財指定書が掲示されています。本絵馬は貴重な物と言えると思いました。

 右の絵馬は、左の柴田勝家が、右の家来の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に足を揉ませている図です。何とも微笑ましい光景ですが、この後に、主従関係が逆転する訳ですから、人間関係の面白さを比喩した絵馬だと思いました。当絵馬は県内にも複数あるそうです。

裏に回りますと
 裏手にほうに回りますと、右写真の階段がありました。ご案内の神主さんは昔、この上方に上宮が在ったようですが、戦国時代にはお城になったとのこと。城の名は、〝おぞの城〟といわれていました。
 今は、階段だけが残っているとのことです。興味津々ですね。


 以上は、当神主の「小方良臣」様からお聞きしたもので構成しましたが、作成者の誤りが多々あることと思います。
順次付加修正していきたいと思いますので、皆様のご協力をお願いします