澤 田 憲 孝(福岡県立鞍手農業高等学校教諭)
下の表は農業土木的見地から犬鳴川流域の様々な分析を試みようというもので、町誌等ですでに分析されているものを除いて分析を試みています。
他の流域や他の時代との比較分析は時間不足で現在まだ行なっていません。後日の課題です。また分析内容は順不動で記しています。なおこれは明治初期の資料での明治時代を考えた考察です。
(1)川幅は現在の4割前後である。現在のような河幅になったのは明治〜大正時代になってからの河川工事の結果である。江戸時代の河川は一部を除き、自然堤防の状態のままであった。それゆえしばしば洪水になり病害虫の問題もあり、飢饉は日常的に発生していた。なお水害が珍しくなったのは昭和60年代ごろからのことと思われます。
(2)これ等の洪水は昭和28水害の聞き取り調査でも【小さな水害は日常的にありました、年間3回程度の田畑の冠水はめずらしい事ではありませんでした】との話の中でも確認されています。
(3)平水位は現在より少し高い数値です。満水位は現在の6割位です。この事は利水上安定していた事を示しています。即ち上流に当るこの地域は日常的に水が有った事を示しています。満水位は現在の様な堤防高でなかったため現在から考えると低い数値です。推測では満水位は堤防高を示し、これ以上の水位は洪水として堤内地に洪水として又遊水池にあふれでていたのではないかと考えています。
なお犬鳴ダムが出来てからの平水位の低下が甚だしく、大川の汚れが大変ひどいと地区住民の殆どの人は言っています。
(4)なお当地における江戸時代等の飢饉の原因として、水不足と病害虫等の関係はもっと時間をかけて考察しなければ何とも云えません。
(5)橋梁については技術的な観点から、凡そ6間以上を難しいレベルの高い橋と考え分類してみました。明治33年の陸軍測量部が作成した地形図でもこの明治初め頃と同じで、当時の旧宮田町範囲で2箇所(粥田橋・春日橋)旧若宮町で3箇所(清泉橋、錦橋、 橋)です。勿論木橋です。橋の無い所では舟による渡しによったものと考えられます。例えば長井鶴の繰り舟橋の様な渡しと考えます。
(6)すでに様々の研究書で発表されています通り、舟が多用されています。ただ今までは高畠(長井鶴)までが舟に使用地域と考えられていましたが、もっと上流の湯原や稲光辺りまで舟による運搬等が行なわれていたようです。舟については石炭運搬用のみが言われていますが、農作物運搬用、河川渡し用も有りました。
(7)堤については数のみでなく、貯水量の面からも検討しなければ何とも言えませんが、地形的要素即ち地域域差が非常に大きいという事。面積÷堤箇所数で見てみると、堤一ヶ所当たり水原52町、金丸33町、小伏21町、本城18町、高野11町、これに比し4町以下の堤しかない村が殆どです。この数値が多いい所即ち若宮の様な所は堤を造るのに適した地形が多いい所になります。本城は筑豊地区一の大きい徳丸堤を持つているからです。勿論これは本城地区の水田管理の為に1600年初頭堤を建造した結果です。この数値が大きい程管理しやすいと考えられます。数値が小さい所は一般的に集水面積が狭く堤管理の能率が悪いと考えられます。若宮地区は緑の豊な山林を持ち、又最上流に在りながら結構多くのの堤を持っています。やはり水不足を経験し、各地区に堤を築造しなければならない経験をしたのだろうと思います。これに関して現在の若宮地区の水利権に関する長期的な視点がしっかりしているか検討しなければならないと考えます。
一度水利権を手放すと、再び水利権を取り返す事は不可能です。水利権のみは百年単位で考えなければならない。
(8)牛馬の数については地域差があります。一般的に云われているのは、湿田地帯では牛が多いい、運搬業を を考えた時は馬が多いいと云われていますが、産業との関係があり考察にもう少し時間が必要です。又牛馬一頭当たりの耕地面積を考えた時も、もう少し検討の必要がありそうです。
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