○ 曲(MIDI)が流れています。聞こえない場合は、ボリュームをあげてください。
(宮若石炭記念館にある本歌詞の二番掲示の額 横幅1m弱)
この歌の生まれた背景 | |
昭和42年頃、その当時、中学校卒業後の中学生は、まだ「金の卵」と称せられるなどして、就職していく生徒がかなりいた。とくに関西方面に赴く者が多く、当時の国鉄筑前宮田駅から集団就職列車などが出るほどであり、家族や周りの人々などが見送りに来て別れを惜しんでいた。 そのようなとき、当時宮田町内の中学校の教師であった小田陽之介氏と赤司哲夫氏が「宮田を遠く去りゆく子どもたちがこの古里の地“宮田”をいついつまでも忘れないで欲しい」と生徒に慈しみと愛の心を込めて作詞・作曲し、当時宮田町太蔵東区に在った映画館「東映劇場」(「お宮座」とも称します。)での宮田町就職生激励会において、中学校のブラスバンド演奏のもと、音楽科教師の歌唱によって披露された。そのメロディー・歌詞は就職生の心に故郷の思いを焼き付けたという。 なお当時の宮田町は、大手の貝島炭坑に依存する町であったが、その炭坑には既に閉山の荒波を受けようとしていた。このページに載せた写真などは、それを偲ばせるものである。これらは「宮田町石炭記念館」(当時)の資料を記録した。 また、この写真等の光景を偲ぶ物は、30年ほど経た今、ほとんど見ることはできない。 平成13年2月 本HP作成者 |
本ページを発信して6年余の平成19年12月17日、作曲者赤司氏から、赤司氏自身のピアノ演奏、松尾千秋さん(赤司氏義理の姪御さん)の歌による録音テープを入手することができ、ご了解のもと上枠の「歌入り曲」 (昭和58年頃、作曲者赤司宅で録音)を発信しました。右図をクリックしてご堪能ください。(本HP作成者) |
このページの作成のきっかけ(平成13年) |
宮若市立宮田西中学校において、平成12年度文化祭の折、2年生時の総合的な学習「地域学習」(宮田の労働と歴史)の実践に感動した当3年生の保護者たちが、力を合わせて大きなエネルギーを費やし、ビデオ制作「つたえたいあなたへ」に取り組んだ。その中の一場面のBGMとして、この「筑豊地方の子もり歌」を一保護者が歌唱している。 保護者の多くは、この宮田町(当時)で育ち、又は生活の糧を得ていた。そのビデオに、保護者たちの万感の思いを込めたに違いない。その保護者たちにとって、時代の大きな変動のうねりをまともに受け力強く歩もうとしている宮田町(当時)に、またこの校区笠松地区に対して、哀愁・哀感の気持ちはどこよりも誰よりも強いといえよう。 |
筑 二 一 豊 ` ` 地 方 閉 炭 は エ ち お ね や は 今 ち お の ま 坑 よ ン ち ま と ま よ 夜 ち ま 子 る ┌┐ ね ド は や ん ん ね は は や も げ や ん レ 筑 し 神 ん 筑 り な ま し ス 三 豊 ゃ さ し は 三 豊 歌 └┘ ゃ は 番 の る ま ゃ は 番 の 赤 小 も い ゴ 方 も い と 方 田 来 ロ お 二 お 司 年 は ゴ 炭 ま は 人 炭 ま 陽 に よ ロ 坑 や よ き 坑 や 哲 之 は ね ば ┌┐ 筑 ね り ┌┐ 筑 介 ん い や 豊 ん や 豊 夫 し ま の し ま の 作 ゃ └┘ ゃ └┘ 作 詞 い 育 い 育 曲 ち ち |
当時の貝島炭鉱の炭住街の一光景 |
お ま や | : | お前は | |
三 番 方 | : | 夜の勤務(例:午後10時〜午前6時) | ||
や ま ん神 | : | 山の神とも言った。炭礦の氏神(ほぼ各坑にあった) | ||
エンドレス | : | 石炭を運ぶベルトコンベアー(坑内、外にもあった) | ||
立 坑 | : | エレベーター式。主に鉱員、資材などを深い地底に降ろした。 | ||
ボ タ 山 | : | ボタ(石炭外)の捨て山(上図にあり) |
三 ` 風 向 は 立 ち お が か よ 坑 ち ま 注 鳴 い ね ┌┐ は や る の ん た 筑 ┌┐ ボ し て 三 豊 タ ゃ こ 番 の └┘ 山 い う 方 は に └┘ お ` は は の 炭 ま 読 よ な あ 坑 や み ね つ か ┌┐ 筑 が ん か り や 豊 な し し ま の ゃ か └┘ い 育 ち |
貝島炭鉱炭住街の一部