竜 徳 史 考 |
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環境保全・水利等の授業に於いては、教材を可能な限り受講者に身近な例で行なっています。ここでは、河川関係等の教材の一部として教材化している『竜徳のいわれ』について取り上げてみたいと思います。(鞍手については既刊本で判明していますので省略) (1) 地名考
地名の付け方については町誌75ページ以下に記載されている様に様々な形で付けられていきます。授業の関係であげますと下記の様になります。
1 自然的地名等。地形ー大之浦、大隈、長田等。鳥ー鶴田、鴨生田、鳥越等。
太陽ー日陽、脇野等。 植物ー百合野、芹田、梅の木等。
2 歴史的地名等。貝塚ー貝代。 埋葬遺蹟ー百塚、小金塚、墓の下等。 土豪や武士ー古殿、小倉、鶴屋敷等。 農業ー井堀、池田、草場等。
産業・交通ー小路、鍛冶屋、中通等。 社寺・社寺領ー餅田、神田、山の神、寺田、如来田、宮田、満願寺等。 3 炭鉱(炭鉱地区等特有)ー栄町、緑町、桜町、平和町、新町、三ッ葉区、二抗等。 4 その他ーーーー儀長、京野、夫婦木、風京、本白、等。 (2)何故『龍徳』が宮田町誌・角川辞典等に無いのか?
『龍徳が地名考に何故ないのか?』それについては、執筆者に聞いてみなければわかりません、が香井田村併合記念誌は次の様に記しています。
その前に『龍』『徳』について、職員会議に出された文献をここに記したいと思います理由は『龍』『徳』が漢字として、過去も現在も同じ意味合いを持つことが多いからです。
なお『龍』『徳』の付く地名を、角川日本地名大辞典・40福岡県より参考に記しますと、次の様な地名が出てきます。理由は「竜徳」と同じようなの地名考の参考の為です。 『龍』ーー龍王峡、龍王山、龍王町、龍宮寺等。 『徳』ーー徳重、徳島、徳政、徳前、徳永、徳光等。
これらの地名も前述の『龍』『徳』の意味合いをもって関係者が名付けたと思われます。
では香井田村併合記念誌ページを記します(9P,本文は縦書きです、一部現代漢字使用)
この文を読むと、前述の校名提案理由の「龍徳」とこの「龍徳菩薩」の基本的思想思考が同じと思われます。 またこの「龍徳菩薩」の意味合いをもって、「龍徳」を地名としたことの当時の関係者の人格的な鋭さに感銘を受けます。
この中に出てくる 稲築城 香井田十郎並緒 天台宗五伽藍 については 後で詳細を記したいと思います。
(3) 角川日本地名大辞典40福岡県にみる龍徳の抜粋 (1453P)
1 平安時代までは龍徳の名前は歴史の上に出てきません。
2 『龍徳』は『龍得』とも記されている。 3 『龍得郷』として鎌倉期ー戦国期に出てきますーー永仁元年(1293年)筑前粥田荘預所用米目録に『龍得郷』として記載されています。 4 次いで建武四年(1338年)等にも、上記と同じ内容で記されています。 5 天正年間(1573ー1592年)「指出前之帳」によれば、『竜徳村』の地積・分米はーーー、と記され、『龍得』が『竜徳』になっています。字の変更理由については何も記されていませんが好字等によると考えられます。 6 文禄四年(1596年)筑前鞍手宗像御牧三郡内知行方目録には、「りゅうとく村」として、ひらがなで記されています。以後『竜徳村』と記されています。
(4)稲築城・香井田十郎並緒・天台宗五伽藍について
ー宮田町町誌・角川日本地名大辞典40福岡県・香井田村併合記念誌等より次に記します。 1 稲築城は現在の鞍手農業高校裏の白百合団地の一角に有りました。団地の中でも、犬鳴川よりで、ほぼ崖の所に城はありました。団地造成工事にともない、昭和四十年代ごろ文化財として記録後、取り壊されました。1001年 稲築山に香井田十郎並緒が築いた砦の類で、現在の様な城では有りません。二ー三日で造られた様な砦でした。 2 香井田十郎並緒はこの稲築山に城(砦)を築き、粥田(現在の竜徳や鶴田)を支配領有していた、と考えられます。
3 天台宗五伽藍はこの香井田十郎並緒が建造した寺と考えられています。その五つとは 1西塔寺 2恩覚寺 3蓮宅寺 4成道寺 5宗元寺 と云われています。この五寺について、詳しくわかっているのは西塔寺のみです。西塔寺はその後「興龍山龍泉寺」→「浄光寺」と名前を変え、1623年現在の鶴田の「西念寺」になった、と西念寺伝記に記されています。これら天台宗五伽藍のどれか一つの寺院に『龍徳菩薩』を祭ったようです。確実な根拠は、仏像や置かれた寺の名等がないため推測の域を出ません。 が現在のところでは『龍徳』の確実な由来話がないので何とも言えませんが、仕方のない事かと思います。なにせ時代は11世紀頃のことですから。が、それでも地名考に見られる通り地名には多くの場合、地名をつける何らかの理由が存在するのですが?
(5)その後の『龍徳』及び『粥田』
この『龍徳』の名付親『香井田』は上記7冊の本等によると、下記の様な歴史的変遷をへたようです。
1 「粥田」は延長八年(930年)源順著 倭名類(略称 倭名 ・倭名抄)に粥田(加都多)と記載されており、「加以多」とも記されています。
太宰管内志では、鞍手郡粥田加都多(都は由の誤り?)と記されています。
2 『粥田』は『香井田』に名を変えていきます。変更理由は好字によるものと考えられています。その後『香井田』は再び『粥田』に戻り一族は様々な変遷を受けながら『粥田』一族として荘園を運営し歴史に名を残します。庄園名『粥田』です。 3 『香井田十郎並緒』の八代の子孫は将軍源頼朝公より活躍を認められ、1190年代後半『杉』と言う名と三百町を与えられ、龍得の祇園岳に築城します。名前を『杉太郎兵衛重緒』といいます。この頃龍徳の地は『粥田荘』と呼ばれています。 (ここで元々遠賀川犬鳴川流域に住んでいた杉一族を現地の杉と仮に名付けます) 4 粥田一族は鎮西平家一族で菊地一族の同族となり、粥田経遠とその子山鹿秀遠は遠賀川一帯を支配する荘園主として君臨します。(現地の杉?) 5 この『粥田』一族と『杉一族』の関係については、はっきりしていません。推測では、『粥田』と『杉』は同系統で、当時の現地の豪族ではないかと考えられますが検討が望まれます。(香井田一族=粥田一族=現地の杉一族?) 6 西中国の戦国大名の雄ー大内の杉の登場:杉弾正。 杉弾正は戦国時代、大内の一族として文安四年(1448年)本庄・龍徳等の荘園経営にあたります。その子忠重・孫連並も名を歴史上に残します。(大内の杉)
7 さらに『杉太郎兵衛重緒』の十二代後延徳(1489ー1492年)年間杉豊後守興行は祇園ケ岳 の奥『龍ケ岳』に築城します(現地の杉)。 この関係で先に城を造ったので祇園ケ岳の所を本城としたという(香井田村併合誌 9P)、荘園の本庄が転化して本城となった(角川1230P)という2つの説がありますが、角川の記述が正しいのでは?
8 確認:杉一族には、1001年に香井田と名前がいわれ、その後1190年杉となった杉即ち現地で生まれた杉と、戦国時代大内より派遣されて来た山口・大内の杉の二系統があります。 9 杉一族は戦国時代 大内や大友・宗像等の戦国大名等に、もまれながらいきつづけますが、豊臣の九州平定の頃には二系統の杉の名が何時の間にかなくなりました。 10 江戸時代の黒田藩の時代は『粥田』という地名は使用されていません。 11 その後、鶴田・本城・竜徳が合併した時『香井田村』として香井田が復活。明治二十二年ー昭和二年まで名前が残ります。『香井田村』が宮田町に合併後はJA香井田支所等で名前を残しています。 12 現在も正月になると、『祇園岳』『龍ケ岳』の城跡にはお供え物が子孫(?)によって供えられています。 (6)インターネットによる考察
インターネットで『龍徳』・『竜徳』を見ますと、次のような事が記されています。
1 神社・寺院での『龍徳』・『竜徳』は現在下記の4箇所が判明しました。 龍徳寺ーー岩手県姉体町龍院寺。
龍徳寺ーー北海道小樽市真栄1丁目3番8号。0134ー25ー3073。
龍徳寺ーー鳥取県八頭郡若桜町。
龍徳寺ーー熊本県小国町ーー(雲山龍徳寺)
2 個人の氏名での『龍徳』
インターネットで個人の氏名での『龍徳』を探すと、やはり〇〇龍徳と記されているように龍徳があります。例えばー日高龍徳氏、石龍徳氏、北村龍徳氏のようにまだまだ全国各地に『〇〇龍徳氏』がいると思われます。多分に(2)で考えられた『龍徳』からきているのではなかろうかと思います。
(7)このように新設校『鞍手竜徳高校』と様々な『龍徳』・『竜徳』は、同じ考えと思います。即ち中国の古典「易経」の『龍徳』・『竜徳』であり、地名考の歴史的地名考に属し、社寺の、さらに理想とする地名考の分類に当てはまると考えます。
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○ 参考書籍及び引用書籍 |
・香井田村併合記念誌(昭和3年5月初版発行)。 ・宮田町誌(昭和53年4月初版初行)。 ・角川日本地名辞典・40福岡県(昭和63年3月初版発行)。 ・鞍手郡誌(昭和47年6月初版発行)。 ・北九州(昭和63年3月初版発行)。 ・遠賀川流域史探訪(昭和43年2月初版発行)。 ・福岡県地名考(2000年11月初版発行)。 |