長崎街道は、鎖国時代に海外に開かれた唯一の港であった長崎への道で、九州内の道のりは五十七里(約228km)、小倉から黒崎、木屋瀬、原田、飯塚を経て、佐賀、長崎へ至り、街道沿いには25の宿場がありました。
 
 この長崎街道は、参勤交代の制度が確立された頃に本格的に交通整備がなされました。

 このうち、黒崎から木屋瀬を経て原田までを筑前六宿といい、文化的にも非常に栄えました。

  長崎街道を通って、オランダ・ポルトガルなどの様々な国の異文化が江戸へ上がってゆき、同時に外国からの知識を求めて、各地から多くの人々がこの街道を下って、長崎を目指しました。

 黒崎・木屋瀬にも、古くから旅人が往来し、幕府の役人、諸大名学者、文人、志士からシーボルト、ケンプェルなどのオランダ人も通りました
 


参考資料:国土庁・九州北部三県広域連携推進協議会発行(平成12年)の「長崎街道」


赤線:長崎街道

旧の宮田町が記してあります!!

 その街道の一部が宮若市にもあったことをご存じでしょうか。このページでは、その足がかりとなる資料をご提供しましょう。
 
 

 
国土庁・九州北部三県広域連携推進協議会発行(平成12年)の「長崎街道」の中にも示してありましたので、地図などの掲載の許諾を得ました。

 

間近にJR勝野駅があります。





早速その場に出かけてみました。
それは残っていたのです!?

 その街道がありました。上写真の家並みの間の道がそうです。

 ここは、宮若市尾勝です。

 手前の山向こう数百mにJR筑豊本線勝野駅があります。

 その近くの宮若市東端に位置する尾勝の家並みの間をぬけるようにして今も存在する宮若市のうちの200mほどの長崎街道でした。

 手前の舗装道路は、過去の長崎街道を拡幅しているようですが、山ぎわの長崎街道は当時の姿を留めているようです。

 なお、家並み含めて左手は宮若市内です。

 左写真撮影と同じ地点で、カメラを右90度振りますと、廃線となったJR宮田線の鉄橋跡があり、遠くの白線状のものは国道200号線、直ぐ下には、かすかにJR筑豊本線が見えます。
 なお、この鉄橋跡から左手内側が宮若市、向こう側は小竹町とのこと。

 尾勝の「長崎街道」に入ってみました。ここを旅ゆく人、中には、維新の志士と世界を結んだ絆の道でもありました。坂本竜馬、江藤新平、吉田松陰、大隈重信、シーボルトなどもきっと通ったことでしょう。波乱の時代に生きた彼らの喜びも悲しみもすべて、この街道は見つめていたことでしょう。

 このところで、宮若市うちの長崎街道は終わりです。向こう側は小竹町南良津を望んでいます。


 
 上地図上の位置に、右写真の「長崎街道跡」標柱が設置したありました。
 上写真「標柱」の奥に進んで右折れに道が続きます。
 その「標柱」の裏には、長崎街道の由縁が記してあります(右写真)。 


〔おわりに〕
 長崎街道を旅した人々は、この地に多くの「鶴」がいたことから、このあたりを「鶴田」と称したということです。


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