宮田のゆらい? どこに?


  旧宮田町の「宮田」って
  言われる由来は?

そして、その宮田は
 どこにあったの?


 宮田町(現宮若市)は旧宮田町が、昭和2年に香井田村と、そして昭和30年に笠松村と合併して、今日に至ったものです。笠松地区の「かさまつ」の名の由来は、別ページにありますが、ここでは、「みやた」の名の由来を考え、あわせて、その「宮田」は、もとどこに在ったのかを辿ってみたいと思います。

 なお、このページの参考資料は、すべて「宮田町史(上巻)」(宮田町役場発行、昭和53年)によるものです。

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課 題 の 提 示


「宮田」の地名が起こったのは、1200年頃に、宗像大社の社領となったとき、「宮」(ぐう)の「田」の意味で「宮田」と呼ばれるようになった>といわれているようですが、このページで、少しばかり探索してみましょう。
 みなさんも、調べてみませんか。


書状に見る宮田の名と位置


@ 1221年に鎌倉幕府が出した関東下知状に「高向無留木宮田弐箇所」とありまして、高向(宗像郡)、無留木(鞍手町室木)、そして宮田とあります。現存する資料の中で、ここで初めて宮田の名が出ているようです。


A さらに時の執権北条泰時の書状により、宮田は当時宗像社領であることがわかっています。


B また、その「宗像神社史」に境外摂末社として75社あげられていますが、その中に「宮田若宮社」として、宮田町本城にある「三所神社」の名があるそうです。


C 以上のことから「宮田」は、鎌倉期の承久年間(1219〜22)から宗像宮の社領として存在していたと思われるそうです。
 しかし、当時の「宮田」は現在のどの地域をさすものか明確ではありません。


D さらに年がすぎ、江戸時代にくだって「筑前国続風土記拾遺」の中の宮田村の条からでは、宮田村の名が出てはきましたが、やはり宮田村がどこにあったかは特定できるものはありませんでした。


E 寛政10(1798)年の著作「筑前国続風土記附録」の宮田村の条や、本城村近津宮(今の三所神社の異名)の縁起に、始め三所神社は、宮田村にあったが、のちに現在の本城に遷座したことがわかっています。
 さらに、同社と道一つ隔てて通称「上の段」(今の町内会「太蔵東区」の一部)と呼ばれる地名があります。この地は、古くから旧宮田村に属し、しかも現在も三所神社を彦神としています。

 よって、先の「筑前国続風土記拾遺」にいう宮田の本村とは、以上のことから、現町内会「太蔵東区」上の段の地かとも想定できます。


<かつての宮田町全図>

<結論>宮田村と三所神社は、上の印辺りと,
みられています




そこで、自治会「太蔵東区」の氏神とする「三所神社」を
あらためて立ち寄ってみました。

するとどうでしょう。左下の三所神社の鳥居の柱に寛政11年と刻まれ、
さらに、社殿前の灯篭「宮田三所宮」(元禄11年と銘記)と
銘打たれています。そして、右下下の写真のように、太蔵東区上の段が鳥居の前に
広がっています。
こうしてみたとき、「宮田」の本村は、上の書状にあいまって、これら灯篭に刻ざまれた内容からして、
この上の段地区であったともいえるのかも知れませんね。


三所神社の鳥居

宮田町JR徳城バス停付近から、北200m進む。

正面の鳥居に刻まれた「寛政11年」

灯篭に「宮田三所宮」の刻印
(元禄11年の刻印あり)


三所神社の前に広がる町内会「太蔵東区上の段」の家並

三所神社の社殿
数年前に建替えしました。


町内会「太蔵東区上の段」の氏神(彦神)である「三所神社」に寄ってみました。
 まず右上の鳥居をくぐり、石段をあがると拝殿が見えてきます。 周りは大きな木が茂り、古(いにしえ)の境に近づいたように感じました。
 いつか、みなさん寄ってみませんか。
800年の歴史を見ることができるかも知れません。
 

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