鞍手軌道とは

鞍手軌道とは角丸四角形吹き出し:  本ページは、直方市在住の篠原義一氏が長年に渡って資料収集され、平成9年7月に「鞍手軌道とその周辺」(300字原稿用紙約200枚)としてまとめられたものから、本HP担当で編集したものです。
 今後、何回かにわたり、鞍手軌道に関する特集を綴りたいと思います。ご期待下さい。

第1回目作成 : 平成15年7月9日

第2回目作成:平成15年11月21日

1 鞍手軌道(株)とは初めて聞きましたが、何のことでしょうか。

 ”軌道”とは軽便鉄道のことです。軌道車は電車より小型ですが、蒸気機関車で、石炭を燃やすので煙突をつけていました。
 この軌道は、旧鞍手郡内の東側の直方町と宮田・福丸間の田園地帯を走っていました。
 バスのない時代、鞍手郡内唯一の便利な交通機関でした。


2 いつ頃から走っていたのでしょうか。

 明治45年3月19日設立の許可がおりました。
 大正3年3月10日…”軌道”は福丸〜龍徳間6.9qの軌道営業を開始しました。
 大正4年10月28日…”軌道”は、直方〜福丸間の軌道敷設工事を完了して全線開通となりました。
 したがって、今から90年ぐらい前から走っていたことになります。


3 ”軌道”は現在のどこを走っていたのですか。

 下りの場合、現「JR直方駅」(「丸食」駐車場付近)から始発します。そして、植木方面に向かって天神橋の手前から左折します。犬鳴川に沿ってのぼっていき、宮田町の粥田橋を渡ります。これより、ほぼ現行のJR国鉄バス路線と同じ福丸バスターミナルが終点である。ただし、現粥田橋は平成に入って竣工したもので、以前の粥田橋は現在の橋より約30m上流にかかっていたそうです。



 上写真:現在の羅漢橋付近
 この道路上に上図の「羅漢駅」がありました。


 上図は 篠原義一 氏(直方市) 提供


4 創設者はどんな人たちですか。

 明治末期、県会議員であった青柳郁次郎らが中心となり、54名の有志者が発起人となり実現にこぎ着けた。 初代社長は、青柳郁次郎で、二代目社長は、若宮町の石井徳久次で昭和3年12月に就任した。
 生家は、若宮町金丸の現冨久鶴酒造業である。


5 どうして”軌道”を創設する必要があったのですか。

 前出の「全線略図」をよく見てください。各停車場のある場所は、にぎやかな人通りの多い商店街(直方、宮田、福丸など)と炭住街(貝島炭坑、長井鶴など)があります。にあります。 日本の近代化にとって石炭の筑豊炭田は極めて重要な役割を果たしました。 筑豊地方には、明治中期以降、西・南日本の各地から、人々がやって来て、人口が爆発的に急増しました。黒ダイヤは、関連工業を生み、人と物を動かす交通の便を促した。
 このような背景から、”軌道”がつくられたものと思われる。


6 それがどんな理由で、いつ廃止になったのですか。

 廃止になったのは、昭和13年です。廃止に近い頃、直方操車場の事務所には、従業員が35名いました。その中の一人、川原三郎氏(須崎町)によると、「鞍手軌道はなつかしい言葉です。何十年ぶりにききました。私が勤めて3年して廃止になりました。機関車の数は、5、6台ありました。経営内容はよく判らないが 利益は余りないようでした。どうにかやりくりしていたみたいでした。利用者からは廃止反対の声は全然起こらなかった。それというのも貧乏会社と知っていましたからね。
 それに、この軌道会社は、兼業としてバス(旅客運輸自動車営業)もタクシーの事業もしていました。廃止になっても会社そのものは道路、通行などの営業権の譲渡やレールの売り上げなどで利益は相当あげたであろうと従業員間でうわさをしていました。
 国鉄バスの有利さは人件費の相違ですよ。バスは運転手と車掌の二人きりでしょうが。ところが、機関車はそれに助手を加えた3人です。しかもレールの修理費がかさむし・・・。
 それにバスの普及があります。ちなみに大正2年頃、直方駅から下境、溝堀まで乗合自動車が列車到着ごとに走っていました。
 昭和3年には、直方〜福丸〜福間間及び直方〜小竹〜飯塚間の運行が開拓されました。
 当時は、6人乗りが中心で、料金は70〜130銭が相場でした。
 でも根本は、国家財政(のちの国鉄バス営業)と一民間会社(地方の私企業)の資本金の差でしょう・・・。」
 以上の理由により、23年間、のどかな田園地帯を走り続けた蒸気機関車(別名マッチ箱と愛称されていた。)も時代の大きな波に飲み込まれてしまった。
 今や「鞍手軌道」の雄姿を実際に見られたことのある人は、数えるほどであり、その名前すら、忘れ去られようとしています。往時の「面影」をとどめているのはほんの僅かです。次回にそれを探りましょう。


7 その「面影」にはどんなものが現存していますか。
 面影といってもいろいろありますが、現在、現地で確認できるもののみを紹介しましょう。
@ 蒸気機関車用給水井戸
 この井戸は、現 Y.T宅にあるそうです。同家にある記録によりますと、「井ガワは、赤煉瓦を積み、直径100p、深さ365p。その後、水量は少なくなったのか、更に60p掘り下げました。そして、木の枠がはめ込まれている」
 井戸のすぐ側には、線路と切符売り場があった。
 井戸の水は、蒸気機関車に利用されたものである。


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