第1回目作成 : 平成15年7月9日
第2回目作成:平成15年11月21日
1 鞍手軌道(株)とは初めて聞きましたが、何のことでしょうか。 |
”軌道”とは軽便鉄道のことです。軌道車は電車より小型ですが、蒸気機関車で、石炭を燃やすので煙突をつけていました。 |
2 いつ頃から走っていたのでしょうか。 |
明治45年3月19日設立の許可がおりました。 |
3 ”軌道”は現在のどこを走っていたのですか。 |
下りの場合、現「JR直方駅」(「丸食」駐車場付近)から始発します。そして、植木方面に向かって天神橋の手前から左折します。犬鳴川に沿ってのぼっていき、宮田町の粥田橋を渡ります。これより、ほぼ現行のJR国鉄バス路線と同じ福丸バスターミナルが終点である。ただし、現粥田橋は平成に入って竣工したもので、以前の粥田橋は現在の橋より約30m上流にかかっていたそうです。 |
上写真:現在の羅漢橋付近 この道路上に上図の「羅漢駅」がありました。 上図は 篠原義一 氏(直方市) 提供 |
4 創設者はどんな人たちですか。 |
明治末期、県会議員であった青柳郁次郎らが中心となり、54名の有志者が発起人となり実現にこぎ着けた。 初代社長は、青柳郁次郎で、二代目社長は、若宮町の石井徳久次で昭和3年12月に就任した。 |
5 どうして”軌道”を創設する必要があったのですか。 |
前出の「全線略図」をよく見てください。各停車場のある場所は、にぎやかな人通りの多い商店街(直方、宮田、福丸など)と炭住街(貝島炭坑、長井鶴など)があります。にあります。 日本の近代化にとって石炭の筑豊炭田は極めて重要な役割を果たしました。 筑豊地方には、明治中期以降、西・南日本の各地から、人々がやって来て、人口が爆発的に急増しました。黒ダイヤは、関連工業を生み、人と物を動かす交通の便を促した。 |
6 それがどんな理由で、いつ廃止になったのですか。 |
廃止になったのは、昭和13年です。廃止に近い頃、直方操車場の事務所には、従業員が35名いました。その中の一人、川原三郎氏(須崎町)によると、「鞍手軌道はなつかしい言葉です。何十年ぶりにききました。私が勤めて3年して廃止になりました。機関車の数は、5、6台ありました。経営内容はよく判らないが 利益は余りないようでした。どうにかやりくりしていたみたいでした。利用者からは廃止反対の声は全然起こらなかった。それというのも貧乏会社と知っていましたからね。 |
7 その「面影」にはどんなものが現存していますか。 |
面影といってもいろいろありますが、現在、現地で確認できるもののみを紹介しましょう。 @ 蒸気機関車用給水井戸 この井戸は、現 Y.T宅にあるそうです。同家にある記録によりますと、「井ガワは、赤煉瓦を積み、直径100p、深さ365p。その後、水量は少なくなったのか、更に60p掘り下げました。そして、木の枠がはめ込まれている」 井戸のすぐ側には、線路と切符売り場があった。 井戸の水は、蒸気機関車に利用されたものである。 |