瑞石寺
(宮田町文化財指定)
宝物「華厳釈迦図」紹介
       宝物「華厳釈迦図」(けごんしゃかず)の紹介





   瑞石寺ページへ
   瑞石寺句碑へ

   トップページへ

 上写真(宮田町史 下巻から)は、やや不鮮明ですが、
「華厳釈迦図」(李朝初期の作)です。
 明和4年(1767)の瑞石寺由来書に「唐の陸王三郎の筆」としるされるもので、縦143p、横110pの布地の大画です。


はじめに


 「華厳釈迦図」は、すでに『瑞石寺誌』の巻頭・口絵、及び宮田町史(上巻)の最初の部分に掲載されています。

 普段、伝承に順って「華厳釈迦図(けごんしゃかず)」と呼んでいますが、「帝釈天(たいしゃくてん)曼陀羅」あるいは、冠を戴くお釈迦さまということで、「宝冠(ほうかん)の釈迦」とも呼ばれるようです。 ボロボロですがね・・・。


時代背景・価値は?


 去る平成5年の9月、九州大学文学部美学美術研究室の菊竹淳一教授のグループによって、詳細な調査報告が成されました。これによると、朝鮮半島で制作された仏画であること、それも李朝(りちょう)初期、15世紀(日本は室町時代初期)のものと推測されています。

 このころの朝鮮半島は内戦にみまわれ、宗教面でも動乱の時代。仏教を奨励した高麗(こうらい)が滅び、李氏(りし)朝鮮の建国という転換期にあたります。
 戦乱のすえ、儒教が国教とされ、廃仏(はいぶつ)政策が断行されました。たくさんの仏教寺院が壊され、多くの仏像や経典が破棄され、仏教僧が追われた時代です。(現在、高麗の仏教を伝える品物も極少ないと聞いています。)

 そういう時代背景を思えば、きっと、この「華厳釈迦図」には、様々な思いや切なる願いが託され、深い祈りがこめられたに違いありません。
  
 李氏朝鮮の建国が1392年のことですから、瑞石寺が創建される応永元年(1394年)に、ほど近いころのこと。つまり、瑞石寺の「華厳釈迦図」は、瑞石寺の創建当時から招来されていた宝物であり、この時代の朝鮮文化を伝える、数少ない貴重な仏教絵画とも考えられます(後の輸入であろうことも、当然、予測されますが・・・・)。


では、なぜ朝鮮の古い仏教絵画が瑞石寺に残っているのでしょうか?


 当時の日本、特に九州国東半島では、天台宗を中心に仏教文化がたいへん栄えていました。また、九州の曹洞宗本山とさえ呼ばれた泉福(せんぷく)寺〔瑞石寺の本寺(ほんじ)〕が、禅宗の一門として大きな勢力を誇示していたのです。その活動の一つに、「大陸からの文物の輸入」という、大きなテーマがあって、博多方面に活動拠点を得ることが必要となりました。

 瑞石寺は筑前で最初の曹洞宗寺院としては極めて早い創建と言われており、国東半島から玄海・博多方面へ出向くための足掛かり的な位置に在り、おそらく、泉福寺と大陸を結ぶ重要なポイントの一つであったと考えられます。
 しかも、すでに述べたように、最も近い朝鮮半島の宗教事情は「廃仏」という危機的状況ですから、大事な品であればこそ、外国とはいえ、「守るためならば譲り渡す」という策をとていたとも考えられるでしょう。

 真相は不明ですが、瑞石寺に「華厳釈迦図」が伝えられるのは、単なる偶然ではないのです。曹洞宗の、特に泉福寺一門における海外交渉史の遺品としても大切な物であり、県内で純粋に「曹洞宗の歴史」を語る什宝と言えましょう。


今後の展示予定?


 というわけで、平成14年の秋になりますが、福岡市美術舘(大濠公園内)が予定している特別企画展【悟りの美・・、・西国曹洞宗寺院の什宝(じゅうほう)・・・】に、この瑞石寺の宝物である「華厳釈迦図」が展示されます。
 さらに、
 「損傷が激しく、もう限界なので、是非、補強・修繕をほどこして、未来に伝え残せるようにしていただきたい。そして、その安心のもとに、展覧会への出品をお願いしたい。」とのアドバイスを受けました。
 当初、この展示会に合わせ、しっかり修復をしてしまう予定でした。ところが、修復を依頼する予定の業者によれば、「修復していては、展示にはまず間に合わない。」とのことなので、仮補修をほどこして出品し、展示が済んでから、改めて修復作業へという運びになりそうです。

 追記 ありがたいことです。平成14年5月、宮田町の文化財に指定されました。     合掌
 
                        平成十四年正月吉日
 
   .                        (文責 瑞石寺)

                (構成・編集 藤渕)                                                         





瑞石寺ページへ

トップページへ