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 宮若市芹田在住、元高校教師の澤田憲孝氏から手帳に綴った「犬鳴川に関するメモ書帳」を頂きました。それには、犬鳴川に関する環境保全・生息する生き物への思いやり、自然災害への危惧と警告、住民の生き方への提言、犬鳴川河川に関する歴史的考察などなど実に盛りたくさんです。一部解釈に苦労するところもあろうかと思いますが、そこはみなさん、じっくりとご覧ください。澤田氏の郷土への慈しみを感じられることでしょう。                      本HP担当 



犬鳴川諸資料及び河川・河川文化等の抜き書き等
     
1 土砂災害危険箇所 危険渓流
   八木山川 122カ所 46渓流 。 犬鳴川 87カ所 38渓流
   黒丸川   18カ所 10渓流 。 山口川 69カ所 28渓流
                       有木・倉久川 99カ所 29渓流。 宮若市下流・磯光鶴田等98カ所 110渓流
   犬鳴川全体 493箇所 110渓流
   この他 地滑り4カ所。浸水のおそれ〜旧宮田町中心部等・旧若宮町中心部等
2 治水・利水・環境―同じレベルで扱う
3 河道内植生 
4 生息環境 ハビタート Habitat。 エコシステムー河川生態系。
5 親水公園・多自然型川つくり 
6 多自然型川つくり−通達。
 1過度のショ−トカットを避け、現在の河川が有している多様な環境保全に努めること。
 2横断については、一律の川幅は避け、広く確保できるところは広く確保する。
 3護岸工法については、自然景観の保全・創出に配慮した工法を選択すること。
 7下記のことは良くない−コンクリートを止めて石積にすれば良い。
   蛇行させれば良い。法面や高水敷を緑化したり、魚を放流すれば良いビオトープを
   沢山造れば良い。サクラ堤・ホタル護岸・アユ釣り・コスモス畑・・・
8 その川がもともと有していた多様な河川環境の保全・復元。連続した環境の確保。その川らしい生物の生息・生育環境の保全・復元。水の循環の確保。攪乱や流量の変動など川自身が持つダイナミズムを考慮。市民・学識者・関係団体等の理解と協力。          
9 緩傾斜護岸それ自体は自然河岸の形態ではない。「攪乱による変動と多様性」「それを可能とする空間」という視点が重要になる。
10 3つの「過多症」=「固めすぎ」「金のかけすぎ」「目立ちすぎ」
11 (1) 川に関する情報を地域の方々と共有化し、その川の治水や環境に関する認識の摺り合わせを行なうことが非常に重要である。 (2)担当者が、現場に何度も足を運び、その川の環境を体感することが重要である。単に陸から川を眺めるのではなく、水の中に入って、河床の情況、生物の生息・生育状況等を良く観察することが重要である。
11 (3)河川は変動する。にもかかわらず固定する感覚で設計施工されている事がおおい。
12 沖積河川の河床変動―1沖積河川を堆積システムとして考える。2河川を空間スケールの異なる階層構造として捉える。3階層ごとにその変化を説明する要素が異なる。4階層を粒径集団の量・質の時間変化でつなぐ。
13 沖積地の河川勾配は折れ線のあつまり。
14 犬鳴川からどういう粒径の土砂がどれだけ流れ出すかの研究が必要。
15 河川流出物――岩石・砂利・砂・シルト粘土 
16 沖積地はここ1万年の期間で堆積した堆積物でできた地形
17 供給土砂量の割合―砂利10〜15%・砂10〜30%・シルト粘土40〜60パーセント。
18 生態系を考えた河川―砂洲が重要―このためには川幅水深比が重要
19 川幅・勾配・粒径を使って河川を考える。
20 川を航空写真でしっかり眺めると川の動きの予測が可能となる
21 守るところだけをまもればいい。これが河川計画の基本。
22 川幅水深比が70位になると復列的な砂洲になる。すなわち変化に富んだ低水路となる。
23 川幅―勾配と流量の積。
24 蛇行河川を直線化すると、河川の幅は拡大する。・・板深の昭和30年代のショートカット工事。
25 セグメント3ならヨシが生えてくる。
26 二万年前―氷河期の極期で現在より海水面が130〜140m低かった。
   一万年前―現在より30〜40m海水面が低かった。
   昭和28年水害は100年に一回の洪水で0.4mの土砂が宮田等に堆積
   ・・・・・・・・0.4m×100回(一万年)=40mの地盤上昇。
27 現在の犬鳴川の原型は紀元400年〜1200年の大洪水時代に出来た。この時に自然堤防ができた。その上に数百年かって堆積物が表層を形成、さらにこれを手入れし、現在の様な河川となった。
28 犬鳴川の最上流部(渓流部分)は1〜10万年前の部分を表していると推測される。
29 洪水―自然現象。なくならない。 水害―人間がいる所の洪水。 
   干ばつ−自然現象。 渇水―人間がいるところの水不足。
30−日本では干ばつに不作なし。
31−気象予測から河川・洪水予測まで出来る日がくる。
32―画一的に一つに集約させていく方向ではなく、何か起こった時別の方向で対処できるような選択の幅をのこしていく。
33−同じ原理を当てはめていくということでなく、それぞれの地域で川をどのようなものととらえてきたのか、土地の自然観とか環境観、これをしっかりみきわめながらこれからの暮らしと川のつながりを立ち上げていく。それぞれの川でのあり方は、幾通りもの道筋がある。
33−産業として位置づけるのは無理だが、教育、あるいは遊び、憩い、楽しみとしての漁という方向があります。
34−行政が何でもできます、やりますと言っていた時期があります。行政が何でもできるみたいな錯覚を行政の側から皆さんに植え付けてしまっている。今なってみるとできない事がいっぱいある。でも「それはできません」と言いにくくなっている。  
35−危ないところにたくさん住んでいる。――。斜面を削って平らにした方はまず無傷です。盛って造った方がみんなやられている。
36―最後(河川への放水)は最もきれいにして流す。
37−水コミニュティ
38−河川に川相あり。水路に水相あり。犬鳴川の川相は? 若宮田地区の水相は?
39−地域用水。犬鳴川の地域用水は?
40−河川と水路を一体的、有機的に受けとめる発想が必要。犬鳴川流域の現状は?
41−川の清流プランをつくる事。ここで必要なことは、伝統的な水利用を昔の事を詳しく知っている人々がいますので、その人々から聞き取り調査・学ぶことです。
42−川の恵みを受ける町づくりには、河川・潅漑用水・湧水・下水道など、すべての水の流れをネットワーク化し、それぞれの水の特性が十分に生かせるにする事。水路ネットワークが必要です。
43−学者の言うことをそのまま鵜呑みにしないこと! 必要なのは現地を詳細に調べ老人等現地の人々より聞き取り調査を行ないつつ考える事―水害等の災害防止に必要なのは永年そこに住んでいた人々が知っている植生・地質・地形や被災体験です。これらに関係者(気象・地形・地質・河川・植生・等の研究実績)の深い考察を加味する事です。
44−高度経済成長の1960〜1970年に水質汚濁を起こしている。――。排水を処理するための下水道普及率が高くなるにつれて、河川が生き返っていきつつあります。
力丸ダム・犬鳴ダムが若宮田地区の河川・水質に与えた影響は?。若宮田地区の下水道普及率は?。農村地区に於ける下水道普及率を向上させる方法は?。外から持ち込まれたゴミも大変困りものですが、力丸ダムや犬鳴川に多くの農作業関係で使用されたビニール類や肥料袋・農薬の使用済みの袋等が流れ出ています。またあちこちに廃車が見受けられます。

45−1960年代以前・昭和33年頃までは泳いだり、釣って食べていたりしていたのです。
46−縄文時代の遺跡は大小の河川の河岸段丘上等にみられます。―若宮等の古墳がこれに該当いたします。・・・この犬鳴川の流れは潅漑施設の殆どなかった時期即ち稲昨の始まった縄文・弥生時代の最適な農業用水を与え、最適な農地を提供しました。又犬鳴川は水運として重要な交通手段でした。
 地名考―西山(東山ではありません)、稲光・入江・山口・原田・・・。
47−縄文時代の人々の生活跡は洪水等の災害を受けない所にありました。
この点で言いますと、現在我々が住んでいる所の多くが沖積地であり、江戸時代以降不安定な沖積地を田畑となした所から水害が生まれています。又急傾斜地を開き宅地化せざるを得なかった所や新設道路等で切り開かれた所で、災害が多発しています。この点で言いますと、土石流・崖崩れ・浸水予想地は減少するどころか増えつつあります。 
 貴方の住んでいる所は大丈夫ですか?。どこを見てこの雨は危ないなと判断しますか? 
48−渓谷―水が細々と途切れることなく流れている状態。    
49−峡谷―両脇から山が狭っている流れ。                   
50−貝原益軒・・「和州巡覧記」・・滝とは激流・急流―滝津瀬の事。今の滝は「垂水」と言っていた−神戸の垂水。
51―江戸時代松本周辺では日本アルプスの事を「西山」と言っていた。若宮の西山連峰もこれと同じ考え。即ち犬鳴川流域に先に人々が住み着き先に文化が栄え、この先住民が西の方にある山を名付けて「西山」といいはじめた。もし福岡側が先に開けそこの人々が先に名付けたとしたら「東山」となっていたはずです。
51−猿飛・・黒部峡谷にある。
52−ダムは水を濁らせる。
53−番水は日照りの時行なわれる。
54−都市水害でトイレが使えなくなるのが一番困る。又勤務先より自宅に帰れない場合です。
55−トンネル施行の影響・・地下水圧の低下。表流水や湧泉の減水・枯渇。トンネル湧水は安定した水。流況阻害。植生への影響は無視できる。
56−トンネルの縦断勾配
トンネルの縦断勾配
 片 勾 配
旧犬鳴トンネル
拝み勾配
新幹線犬鳴トンネル
  (福岡トンネル)
突っ込み勾配
関門トンネル
57―洪積層の水はいいみず。
58−遠賀川流域の災害等を考察するとき、大阪平野の成り立ち・淀川水系の変遷等から学ぶ事。
59−八木山漁業協同組合 (以下小番号1〜23漁協関係)

1−八木山川 長さ−22km。流域面積―
2 力丸ダム 重力式コンクリートダム・高さ49.5m。長さ230m。流域面積34平方q。湛水面積79ha。
    昭和40年(1965年)完成
3−組合員資格審査実態調査表(平成10年・24名会員)より一部抜き書き・個人名省略。なお漁業権設定区間は8kmです。
   Aさん−昭和35年3月20日組合加入。正組合員(注―準組合員・家族組合員あり)。出資額20口 1万円。所有漁具 立ち網2.投げ網2.釣り竿3.出漁収入状況―アユ20日 10万円。鯉10日 25000円。フナ6日 2万円。売り先 鮮魚店・個人営業。                            Bさん−昭和35年3月20日組合加入。正組合員。出資額20口 1万円。所有漁具 立ち網2,投げ網2,釣り竿3。出漁収入状況 アユ29日 13万円。鯉5日 2万円。 フナ3日 1万円。売り先 農協鮮魚部、個人販売。                  
4−組合加入情況 早い人で組合認可の昭和32年3月と推測される。加入は本人のみ・夫婦・親よりの引き継ぎ等やで加入時期も昭和35年とか昭和45年頃の加入等様々です。なお千石漁協・日吉漁協の時代の加入情況はわかりません。 
5−聞き取り調査や早川組合長が所持記録されている文書から考えると、戦前より八木山水系ではハヤ・鯉・ふな・蟹・鰻・てながえび・川どじょう・等様々な魚が生息し、これらを捕り、販売し、収入に当てていたようです。アユについては組合の放流により漁業資源として収穫販売がなされたようです。千石荘・笠木荘ではこれらの魚を名物料理として営業を営んでいたようです。このころには宮田町の千石漁業協同組合・若宮町力丸漁業協同組合の二つの組合がありました。(この二つの漁業組合の設立は昭和11年と推定されます)
この二つの組合は力丸ダムの関係で昭和32年頃に一つに合流し福岡県に申請、八木山漁業協同組合が成立認可されたようです。この頃昭和35年の組合員数は117名(推定)でした。
この八木山川漁業協同組合は、遠賀川水系の唯一の漁業権を持つ組合となりました。
明治初期の福岡県内の様々な記録を記した「福岡県地理全誌」によると、江戸時代を含め明治の頃、遠賀川水系では、ハヤ・鰻・蟹・ナマズ・等が全流域でとれていました。この事は地理全誌の抜き書きをした「犬鳴川流域の農産物」に記載しています。川の魚の恵みが漁に携わる人々の生活の一部を支えていたようです。(犬鳴川流域の農作物川の収穫物―はインターネット MIYATA ふれあい に記されています)
しかしこの遠賀川水系の魚を中心とする恵の河川も石炭産業盛んな戦前戦後、殆どの遠賀川水系の河川が石炭の選炭で汚れ、ぜんざい川と呼ばれるようになりました。この中でこの八木山川は選炭水で汚されることもなく清流の姿を永くとどめていました。そのような関係と推測されますが、漁協が設立されたのはここ八木山川のみとなりました。福岡県内10漁協の一つとして八木山漁協は昭和32年3月に成立認可されました。完全な理由ははっきりしませんが、犬鳴川本流をはじめとして、遠賀川本流も英彦山川も中元寺川等にも漁業権の設立認可は有りませんでした。
 西日本新聞の2001年の記事より推測される事は以下の事柄です。即ち一番最初の放流をされたのが早原広勝氏で早原一男氏の祖父にあたります。昭和の初期、鯉・ふな・アユ・ワカサギ等を放流、生き魚のない山間僻地としては大切な蛋白源だったようです。その後戦中戦後の放流の情況については不明です。ただ判明しているのは力丸ダムの完成後の力丸ダムへのブラックバス放流でワカサギの放流は止めたようです。1965年昭和40年力丸ダム、1976年昭和51年花の木堰完成。この力丸ダム・花の木堰の完成に伴い八木山川の漁業環境は激変したようです。
 鰻・蟹・フナ・ギギ等は激減又は見られなくなりました。花の木堰には魚道がありません。ダムの関係で河川流量も激減しました。夏等には八木山川・犬鳴川の川底で水きれ・断流現象が多発しだしました。これ等に伴い魚がとれなくなりました。八木山漁業協同組合や福岡県水産振興課・宮田若宮の両町でワカサギの放流も続けましたが、思いように生育しませんでした。日吉の竹の子工場の排水や採石場の排水、断流等によりさらに魚の収量が激減しました。この事が「川は死んだ」として、漁に入る会員の減少を生み、さらに会からの脱退を生みました。一番疑問に思うことは何故花の木堰に魚道が設けられなかったのかと言うことです。花の木堰改築に伴う設計打ち合わせ段階で漁協や町役場の関係者・釣りの愛好団体・山田川水利組合等ではどんな話し合いが行なわれたのでしょうか。この点については関係者への聞き取り調査をしなければならないと思います。ただどんな話し合いが行なわれたとしても今からでも遅くありません。花の木堰に魚道を設けるべきです。
6−そもそも漁業協同組合は次の様な事業をする事になっていました。
  イ−各地域に漁業協同組合による毎年の稚魚の放流(義務放流)
  ロ-県費による稚魚の放流(昭和61年度で50万円)               
  ハ−遊魚券の販売・不法遊魚の取り締まり                 
  ニ−県連合会発行の県統一の年釣り券の委託販売
  ホ−この他に次の様な事がなされています。組合総会で組合員の確認・組合長1名理事6名監事2名の確認・決算予算の確認・一番大事な鯉・鮒・アユ・ワカサギ等の放流事業の確認・魚についての研修・他県の漁業研修・河川の美化作業等)

7−会員数の情況を書類で判明する範囲で記します。(概数)
  昭和35年―推定117名。八木山川流域の殆どの家庭が会員になっていたとのことです。その会員の権利は親から子へと引き継がれました。この事は総会での文書や会員変更届けで確認することが出来ます
  以降昭和36年〜昭和60年頃まで不明 (書類見つからず) 
  昭和60年。120名−この頃,名前だけの会員が増え,会費納入滞る.この為財政的に行き詰まる。町等に援助を依頼するも、町も財政難のおり、援助が出来ないままとなる。県等への支払いや義務放流の資金の目途が立たず、財政的に解散情況に追い込まれ、県よりの指導も入る。名簿上の会員となった理由は魚の減少で漁獲量が減り、漁に行かなくなり、会員としてのメリットがなくなった為等と考えられる。又釣り人の釣り券確認や清掃作業等も魚の激減これに伴う釣り人の減少に伴い又作業賃の問題もあり、誰も行かない情況となりました。
8−1990年平成2年 24名―― 会費未納会員の大幅整理を断行する。
9−平成7〜8年ごろ県への負担金納入がとどこうり、また義務放流に伴うお金が底をつき県より何とかするように再三の指導を受ける。この為関係者の間で八木山川漁業協同組合の解散が具体的日程にあがり出す。これに対して 「県や町の指導―放流事業は地域の活性化・青少年育成等の為に続けなければならない。
 産業として考えるのではなく、大きな視点で八木山漁協の存続をお願いしたい。この財政的援助を町・県でかんがえますから、解散だけはとどまっていただきたい」。との話がされだす。 
 その後宮田、町若宮町より補助金の具体的な話があり、年間両町で計60万円程度の補助金を出す事で折り合いがつき、解散の最悪の事態だけは免れる事ができました。その後も会員約24名で組合運営を行ない、放流や清掃活動等を続けています。但し魚の激減情況は変わらずで、昔の様に漁で家庭収入が増えるような情況にはなっていません。
10−平成15年度の放流状況 平成16年3月                   
    アユ  7cm  1万匹・24万円 県魚連より購入(矢部川漁協より)  
    鯉 15cm  80s・10万円 県魚連より購入
    フナ10cm  50s・ 5万円  県魚連より購入
11−放流箇所 脇の橋〜ダム間でアユ3箇所、鯉1箇所。
        ダム〜郡界橋間でアユ4箇所。
12−現在の財政状況(概略)平成9年度の例。
  収入 宮田町若宮町補助金 60万円
      県よりの遊魚券代  23万円 。日売り券 14000円。
      組合員負担金    12万円(組合員一人年会費5000円×24名)
  支出 義務放流分のみ記載。(外に事務経費等あり)
      アユ 31万円。 こい 7万円。  ワカサギ卵 24000円。
   なお福岡県水産課もアユ・鯉・ワカサギ等を放流しています。
13−トントン井堰の所に禁漁区の石碑があります。
14−平成16年3月31日全国養魚振興協議会より千石荘鯉料理優秀店として、表彰を受ける。なお千石荘は主人がお客と一緒に釣りに行き、そこで取れた魚等を出すことで、評判になっていました。ダムが出来る前はサバ位の大きなアユが取れ、県の水産課職員が見に来たこともあります。川の石も水苔で覆われ真っ青の状態でした。
15−ここは豪雨で大変危険な状態になる地域です。洪水が予想されるときは、町より区長に、消防署より消防団長に前もって連絡がはいります。平成11年6月の豪雨は平成28年災害をしのぐものがあり、大変な被害がでました。勿論連絡は有りました。
16−ダムの上流・小谷渓流では平成11年災害の時山崩れで一台車が流されそうになり、皆で救助活動に行ったとのことでした。この豪雨の時には小谷地区には豪雨の連絡が町
や消防所から連絡が有りませんでした。連絡が有ったとしても豪雨で聞き取れなかったり、外に様子を見に行ったりしていてわからない場合があるとのことです。この防災連絡は真夜中でもあるそうです。
17−千石はその昔この地域で千石も米が取れることから名が付いたとの事です。この事をもじって、ダムが出来る以前は千人泳いでも濁らない渓流と自慢していました。飲める程度の清流で、夏は大変な人出でした。今は百人泳いでも濁る情況です。
年間に今は3万人程度町より遊びにやってきます。一番地域として困るのはキャンプ客等のマナーの悪さです。通行不能になるような駐車の仕方をするし、道路の真ん中で焼き肉をし、ゴミはほったらかしの状態で大変です。
18−平成16年現在の年間釣り券は5000円でこの券があれば県内どこの河川でもまたいつでも魚釣りをすることが出来ます。八木山川のみの1日釣り券は500円です。アユ・ハヤだけの年間釣り券は4000円、鯉等だけの釣り券は2000円〜3000円で、このような年間釣り券は漁業店で売っています。八木山川の釣り券は中畑の売店で扱っています。
19−宮田町は山田川水利組合に年間400万〜500万円の負担金を支払っている。聞くところによると宮田町は力丸ダムについての水の水利権等殆ど持っていないとの事です。            
20−ダムが出来るまでは、葦は大水で殆ど流され、岸辺に少し生えていた位でした。ダムが出来てから川一面に葦の群生が見られるようになりました。この事は力丸ダム下流でも同じ現象が生じています。
20−戦前はわかりませんが、戦後から昭和30年前頃まで、犬鳴川の藤原橋付近や八木山川の脇野辺りで川砂を取って生活している人がいました。堤防に小屋をたてそこを根拠地に採取している人もいれば、通って採取している人もいました。寒い冬もたき火をしながら採取しているのを見かけました。子供ながら「大変な仕事だな」と思いました。
21−力丸ダム完成昭和40年。 花の木堰完成年度昭和51年。 遠賀川河口堰完成昭和57年。 犬鳴ダム完成平成6年。
年代的に見ると明治時代北九州の八幡製鉄等の工場の水を遠賀川水系、とりわけ犬鳴水系に求めています(遠賀川河川史)。工場の燃料として筑豊地区の石炭と犬鳴水系の水を前提として工業立地を考えていたようです。八木山川については現在のダムサイトより少し下流に一箇所、三瀬橋に一箇所計二箇所考え、測量や地質調査を行なっていました。が最終的には現在の位置に一箇所に決定しました。犬鳴川本流については現在の位置に一箇所とし、集水量を補うため現在の県道側よりポンプアップしダムに蓄える計画でしたが、この計画は中止されたようです。
計画時期力丸ダム・犬鳴ダムともに若宮町・宮田町は財政難及び比較的水に困っていなかったため、建設費の負担を断り、特別な水利権の取得はしなかったようです。むしろ洪水防止の点から言うと、町の負担なしにダムが出来る事で喜んでいたようです。義務放流や農業用水として従来通りの水利権が確保されるのでそれで話は終わったようです。
この昭和40年〜50年頃八木山漁協はありましたが、それ程活発に行動しておらず、又現在程環境問題がうるさくなかった関係・および生活に追われていた頃で、計画の細部についての地元としての検討及び要求はされていなかったようです。又花の木堰計画頃即ち昭和40年頃は貝島炭坑の排水での「ぜんざいかわ」のイメージが残っており、花の木堰に関しては、魚道設置が大きな問題にならなかつたようです。
 即ち現在の千石公園のように公園が整備されるとは考えていなかったようですし、水もダムが出来てからも今まで通り流れ、魚も捕れるだろうと考えて花の木堰の魚道設置要求をしなかったと推測されます。又ブラックバスやブルーギル・ハス等の外来魚によってこんなに魚が激減するとは予測していなかったようです。
22−さらに古老からの聞き取り調査で次のような事がわかりました。
昭和の5〜6年頃まで千石と日吉地区は山道でしかつながっていませんでした。日吉地区は山越えでしたが脇田を中心とする若宮とのつながりが強かったのです。ここ千石も下を通して若宮とのつながりがつよかった。昭和6〜7年頃は家も多かった。橋は土手よりおりて、水面上1m程度の上に木の板を渡し、対岸との往来をしていました。水害で流される事もしばしばでした。昭和7年頃現在のようなコンクリートの橋になりました。千石と日吉地区の道はやっと幅1m位の道でしたが、昭和6年頃県・町・地区住民がそれぞれ道路建設費を負担し、現在のような道になりました。勿論建設当時地元にはお金がないので、負担金の分だけ労働奉仕でまかないました。
農地の少ないこの地での生活は大変で、結構炭焼きが盛んでした。山は国有林がおいいです。現在この地区では仕事がなく、若者は外に生活の場を求めて出ていきます。この地区で住む跡継ぎ問題がこの地区の最大の問題です。
23−アユー川で生まれ、小さい時期は海に下り、海で育ち、卵を産むために元の川にもどる。これをかそ魚といいます。生まれる時期は10〜11月、卵は直径約o・水温15度で約15日で7o程度に孵化成長します。孵化後2日程度で海に戻る。冬の間は海で動物性プランクトンを食べ成長、この頃は身体は半透明でシラスアユとよばれます。約6〜7cmに育った稚アユは、3月頃より川を上り始め、6月頃までに元の川上に帰ってきます。この頃は水生昆虫や水に落ちてきた陸生昆虫を食べる。それ故昆虫に似せた擬餌針で釣ることが出来る。5〜6月頃になると、唇にはえた歯とザラザラになった舌で、川底や石に生えているケイソウやラン類等の水こけをなめるようにして食べ、成長します。この水草・苔類のえさの関係でアユ独特の香り・匂いを持つ高級魚に成長します。体長も10cm以上になります。また餌場は縄張りとして生活のため他のアユを近づけません。この為他のアユがちかづくと追いだします。この習性を利用して釣る方法を、「友釣り」といいます。秋が近づき、日が短くなると生まれた場所・産卵場所に戻ります。この時の鮎を「落ち鮎・下り鮎」といいます。川で産卵した子供は再び川を下り、海で生育します。
 この点から言いますと、河川に大きな堰等が有ると海に行けないし、又生まれ古里の川の上流に戻ることが出来ません。犬鳴川には花の木堰があり、これには魚道が有りませんので、鮎は犬鳴川・八木山川では育たない事になります。又ダムの関係で川底等に苔類が少なくなりこの為十分大きくならないし、産卵する親になれない事もあります。また卵の時や孵化直後ハス等の外来魚にねらわれ、またブラックバス等におそわれて食べられてしまいました。
 鮎の生育にとって大変困ることは、堰の存在・ダム等で水が少なくなる事・稚魚等を食べる外来魚の存在です。
モズク蟹・鰻等も鮎と同じように川〜海の間で生活しています。この関係で鮎と同じで堰や河川の減水で生育出来なくなります。

【花の木堰に魚道を造って下さい】と言うのが鮎・もずく蟹・鰻等の願いです。

60−治水三法―河川法・砂防法・森林法

61−かつての日本ははげ山であった。森林の荒廃は人口の増加に比例する。燃料革命や肥料革命が起こったのは1960年代である。これまでは燃料等を山に頼っていた。
百年前の治水三法の時代から森林の回復に向かっていった。江戸時代は山地荒廃の時代であった。この江戸時代の儒学者が治山治水を主張、「諸国山川の掟」が差出され、意識ある人々によって植林や治山事業が行なわれだした。江戸時代後半の洪水・水不足それらによる飢饉の増加・深刻化の原因の一つがここにある。
62−渓流生態の現状。 松林が減少。杉檜を中心とする人工林の増加。地滑りは深層崩壊であり、樹木の存在とは関係ない。
63−水質保全や生態系保全の目標は、昭和30年代―河川で泳げた時代・小川等で洗い物が出来た時代を一応の目安としている。聞き取り目標年代を70〜80代とする。
64−森林の影響として表面流失を低下させ、又降雨後の流量は平均化します。が渇水時の流量は増えません。理由は渇水時木々が生命保持の為水を使用するからです。問題は木々の有る山々の表面の状態です。木々の葉や落ち葉等が流出時間を遅らせ、地下浸透の時間を長くします。もし樹木やふようで地面が覆われていなかったら降水はただちに地面にしみこむことなく流失します。同じ降雨でもアスファルトやセメント舗装・屋根等に覆われた人口密度の高い都市では急激な増水に見舞われます。「都市化は災害を招く」と言われる所以です。
65−渓流は水・土砂礫・水生形成物質の通路。水域と陸生域、渓畦域と山腹斜面は疎通性がある。渓流生態は土砂礫の移動を原則としている。極端な土砂礫の移動は災害を生む。
66−水辺林=渓畦林(渓流)+河畦林(河川)。水の有るところの森林は斜面の森林に比べれば、生物多様性に富む。渓畦林は土砂移動に対応した生態系が存在する。
67−河川・渓流等が変化に富むのが当然なのである。変化のない渓流・河川はおかしい。セメントで覆われた護岸だらけの渓流・河川は死んだ渓流・河川である。犬鳴川流域には結構砂防ダム・コンクリートだらけの護岸が多いです。
68−渓流生態系保全の基本的視点―渓流の生物群集全体を考える事。渓流における生息場所構造が動的変化に維持されるように、渓流環境を考える事。流域全体の生態系を考えること。土砂災害の防止と両立させる事
69−森林計画が林業計画になっている。河川・渓流・森林を総合的にみた流域管理が必要。
70−杉・檜等の人工林の造成は江戸時代の中期以降である。尾鷲・吉野等の林業が発達したのは18世紀の終わり頃からの事である。それまでの林業は自然に育っている木を切って運び出す林業であった。
71−17世紀以降日本では土砂が大量に流れ出し、天井川があちこちできだした。
若宮の山口川の中学前下流の天井川発生時期は?
72−魚道だけの生態系保存では、生態系関係者は納得しない。魚だけのことしか考えていないので。
73−森林も河川も地域ごとの特性・変化が有るのが当然。
74−おいしい水の条件―ミネラルが100mg/L・硬度50mg/L・炭酸ガス30mg/l・水温15度の水―これは湧き水・地下水・谷川の水。
75−水飲み比べで変な味匂い等が感じるのは塩素だけでは有りません。アンモニアが入っているからです。宮田東芝の水(宮田町の水道)にはアンモニアが入っていません。トヨタの水にはアンモニアが入っていると考えられます。
76−会席料理や豆腐の味・コーヒーの味は水で決まる。
77−きれいな河川を取り戻す方法―すべての下水・排水の処理。渇水量の増加。河川敷内における浄化促進。
77−利水ダムに付け加えて放流ダムが必要である。
78−アメリカでは農地を消耗品として扱っている。土も水も消耗品なのです。アメリカ農業では、孫子のことを考えた土づくりとか、土地改良はしない。一旗あげようとした移民が農業で金儲けをしようとしてやってきた、そんな農業です。農業もビジネスなのです
そんなアメリカ農業から今後も安定した農産物が日本に来ると考えるのは危ない発想です。かつて大豆を日本に無理矢理輸入させていた米国が、大豆の不作で日本への輸出ストップをかけたのです。この関係で日本の大豆関係の産業は大変困りました。味噌・豆腐・油揚げの値上げから朝食の値上げまで行きつきました。都合のいいときは日本に輸入を強制、都合が悪くなれば輸出ストップ、これがアメリカの農業戦略です。
79−日本ではゴミの捨て場がなくなります。輸入に8億トン、輸出に1億トン、差し引き毎年7億トンの産物が日本ではゴミとして蓄積されていくのです。
80−人百年・木十年・作物1年。  家を存続させる為には子供を都会に出すな。 
江戸時代の江戸の人口百万人は当時の日本人口の三十分の一です。現在の東京・千葉・神奈川・埼玉(これをまとめて都民と考える)の人口は三千五百万人人で、全日本人口の三分の一です。東京一極集中は限度を超しています。
81−地産地消―これが原則です。わざわざ遠くでつくりそれを遠方まで運び食べるのは運送費の無駄遣いです。
82−林業の世界では、日本は自国を緑にして残し、アメリカやインドネシアの林を丸裸にしていると言われています。
83−畜産地帯即ち南九州・愛知県・千葉県・茨城県の加工畜産地帯では、窒素過多で汚染が進んでいます。                              
84−輸入農作物が安いのは生産国の労働賃金がやすいからです。生産国の農民の低賃金の上にのっかつて日本人は生活しているのです。
85−加藤清正の治水―常に実践的です。村々の古老を集めて古今の水害を聞きただし、茶臼山に登って流域の自然地形を体認し、素潜りの名人と共に、激流に自ら身を沈めて、川底・水衝・流勢を飽きることなく検分し、自づから図面を引き、ただ一人現場で陣頭指揮して、工事帳簿まで付け、しかも決して緩怠しなかった。(詳細は、日本河川協会発行「河川文化」その十二、223〜227ページ)
86−洪水氾濫許容型の治水対策が必要
87−伝統的河川工法の材料―環境との関係。
88−土木というのは、「土を築き、木を植えて」・・これが土木の基本。修景十年・風景百年・風土千年。
89―川はどこでも物語と伝説宝庫―犬鳴川に関する物語―Miyata ふれ合い 参照
90−棚路―佐賀で河川・小川に下りる階段のことを言う。
91−程々の大きさ・水質がいい…この事で日本の滝は信仰の対象になっている。
92−江戸時代鹿は麓や平地にいた。それが人口の増加にともない山間部に追いやられていった。
93−里山回廊。湖沼・湿原・干潟がどんどんなくなっていっている。これを補っているのが水田である。水田が疑似湿地生態系の役割を果たしている。
94−動物にとって大事なのは食べ物・隠れ場所。
95−外水氾濫=2004・7新潟、内水氾濫=2003・7・19飯塚市
  避難勧告では10%程度しか避難していない。阪神大震災・2004新潟水害でも老人の被災が目立つ。
96−防災ではなく減災を考える時代である
97−無駄な公共事業をヤメロ→公共事業はヤメロ→治水事業も進まない。となっている。「治水事業をヤメロ」は間違い。さらに国に事業が県に県の事業が市町村に移行されつつある。この中での災害対策が心配である。
98−町中心部の2〜3倍の雨量が山間部で有っている。多くの行政の防災担当者はこの事を知らないでいる
99−100mmを越えるとどんな山でも災害は発生する。植林されている山でも丘・町でも100mmを越えると災害は発生する。
100−集中豪雨発生のメカニズム
 イ・ヒートアイランドにともなう冷却風の流入。
 ロ・海岸付近の山体による上昇気流の発生、1000mを越えると危ない。
 ハ・湿舌現象。                                    
 ニ・長さ20km〜100km、幅2〜10km程度、継続時間30分程度の雨雲による豪雨が多発している。平成頃から80mmを越える集中豪雨が多発している。
 ホ・現在の洪水の特徴 ・洪水ピークの時間が早くなっている。洪水量が増加している。全流出量の増加。

101−現在の洪水災害の課題
イ・素早く情報を手にする。
ロ・中小河川の超過洪水対策。
ハ・住民参加の防災。
ニ・災害受容リスクから災害忍耐リスクに移っている。
102−様々の防災課題。例えば 伝わらなかった情報、災害にもろい避難所、災害弱者即ち老人の取り残され多発、消防団員の減少等。
103−ボランテイア活動の充実に向けて防災コーデイネーターが必要である。
104−放置された車の問題。災害後床上浸水で一軒あたり2.7tのゴミ、床下浸水で0.4tのゴミが出される。これに不法ゴミがチャンスとばかりに出される。

遠賀川・犬鳴川   関係要項
1.河口堰 昭和55年3月完成 貯水量1114 立メ…トル。
2 .河口 明治39年第一期河口改修工事:難工事となる。 
3.岡森堰 1772年築造 S40年岡森堰対策協議会設立。
4.S28年水害…死者20名・流失家屋64戸・全壊262戸・床上浸水15826戸
5.河川名 貝原篤信 筑前の国続風土記    記述なし。
    青柳種信 筑前の国続風土記拾遺  記述なし。
    明治5〜6年頃  福岡県地理全誌……木屋瀬川。  
    明治20年陸地測量部…………………… 嘉麻川。
    古事記……上古の時代………河口一帯…岡………遠賀と変化。  
6.新生代古第三期(4000万年〜5000万年前)……沈降・隆起…石炭出来出す
        100〜60万年前……英彦山等火山活動。
7.天神橋貝塚……川底下約6m。−縄文前・中期の土器や貝が発掘される。
8.石炭…1478(文明10年)…八幡西区畑山金剛山…文書記録の最初。
      黒田藩…燃料対策・貧農対策……焚石会所・仕組法。
      1826年文政9年…芦屋。1830年文政13年…若松………焚石会所。
9.1913年(大正2年)二瀬中央101人。1914年(大正3年)方城665人
        1917年(大正6年)大之浦365人。
10. 鉱害……明治40年頃より問題となりだす。
11.鉱毒水…金気水…鉄分を含んだ弱酸性の水…空気に触れると酸化して赤くなる。水
   酸化第二鉄(OH)33- 沈殿物・浮遊物。
12.遠賀川の流れに鉱害が発生するのは昭和16年頃から。
13.落差のある取水堰は河床が鉱害で低下したため……一木堰・岡森堰・糒堰等。
14.堤防の天端の低下については昭和28年頃を調査する必要がある。
15.河床陥没・堤防・樋管等の沈下量……1〜2m.
16.豊州炭坑水没事故 昭和35年9月。昭和31年碇川河床陥没。倉久川流域炭住陥
   没事故。
17.産炭地域……2条地域。 激甚産炭地域……6条地域。
18,人口の変遷  昭和30年石炭産業最盛期→平成15年頃
     飯塚市 10,7万人→8万人
     田川市 10万人  →6万人
     鞍手町  3,1万人→2,3万人
     宮田町  5,2万人→2,2万人 
19・筑前六宿  黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田
   長崎街道……脇街道 小倉・田川・山田・大隈・甘木・久留米
20・川ひらた(五平太‥平太)大隈・添田・若宮境‥−年貢米‥木材‥石炭‥等を運
    搬する。その後石炭中心に移る。
   中継点の例……飯塚‥赤池‥植木等。
    上流…長さ6−7m。幅1,8m……2,1t積み。
    下流…長さ13m。幅2,4m、高さ0,58mm……4,2t積み。
21・1840(天保11)…堀川−5105捜−60%石炭.
    1842(天保13)…堀川−9638捜−70%石炭
       年貢米より石炭に移行.
22.川ひらた…下り2〜4日。上り二週間。
23.昭和14年 1939年…川ひらたなくなる。
24.直方中心の鉄道網…全国一の鉄道密度…川幅の狭いところ橋梁…洪水の原因
25.昭和25年:水田面積2万f。 現在は70%.1,4万f。減反。宅地化……
    …洪水の原因。都市化は災害を招く. 平成15年飯塚市等の水害の原因の一つ
26.大和の大峰山:出羽の羽黒山:加賀の白山:英彦山(3880坊)
    明治以降の神仏分離で衰える.
    英彦山神社…天台宗の霊山時を分離。旧官幣大社。
27.1763年宝暦13年犬鳴川大洪水で、小竹奈良津:植木に流れていた二つの流
    れ、現在の植木にまとまる。
28.明治38年7月26日洪水…堤防決壊257カ所。橋梁流出141カ所。
    第一期遠賀川河川改修工事の目的…炭坑を洪水から守る事。
    支川の合流方向を下流方向に移動…例:八木山川と犬鳴川の合流点。
    堤外地への拡張。掘削、浚渫およびショトカット。
29.昭和10年頃鉱害沈下が河川にも出現。河川の荒廃目立ち出す。
30,昭和28年6月26日水害で中の江堤防決壊。水位5.33m。
31.昭和34年豪雨で犬鳴川:倉久川に被害。宮田270_.
    一時間で50〜70p水位が上昇。洪水時間が3〜4時間と長かった。浸潤線
    の問題。
32.明治の河川改修工事内容
   掘削土…築堤・廃川敷地・民有地・炭坑陥没地・湿地の埋め立て等に使用。
    堤防築堤…750万立方メートル。廃川埋め立て200万立法メートル。
    民有地埋め立て420万立方メートル。   計1400万立方メートル:八木山
    ダムの体積分。
    買い上げ地300万坪。
    河口2m浚渫。浚渫土量120万立方メートル。
33.昭和16年6月水害…原因:堤防護岸の沈下、洗炭微粉による河床上昇。
34.第二期改修工事…昭和20年10月よりスタート。
35.河川より54m以内は採掘禁止。……守れれていない。
36・犬鳴川900立方メートル/sを計画流量とする.流積不足を洪水敷を設け増大
37.犬鳴川第二期改修工事の内容
    堤防の拡幅.引堤,河床の掘削,パラペット工事、床固により堤防護岸の安定
    をはかる.天端幅5m。犬鳴川の樋門・樋管の統合。
38・犬鳴川600立方メートル/sは80年確率。
39・霞堤は遠賀川全体で15カ所。
40.犬鳴川 昭和19年より昭和36年の17年間で0,5〜0,9m堤防沈下。
41・遠賀川年間予算100億円。 全国予算8000億円。
42.渇水…9年・17年・23年の周期。
    洪水…9年・25年・37年の周期。
43.1万立方メートル以上の溜め池 宮田20カ所 170万立方メートル。 
                   若宮15カ所 100万立方メートル。
44・浮州池・木月池…鉱害陥没(及び採取による)池… 162万立方メートル。
45・ 国土交通省直轄区間堰数…遠賀川74カ所。筑後川32カ所。
    犬鳴川の内 若宮町全体の取水堰…500カ所以上(小さいのも含めて)。
46・花の木堰…1230fの潅漑面積。遠賀川流域で最大の潅漑面積。
    花の木堰の水は山田川を経て浮州池に入り、鞍手町で毎日8000立方mの水が
    取水され、中間市が毎日2万立方m取水しています。トヨタ自動車の工業用水も
    浮州池より取水送水されています。東芝の水は八木山川の水です。
    山田川の水路は山田川水利組合が管理しています。
     明暦2年(1656年)植木渡し場。ここに最初の堰が設けられた。
     明暦4年(1658年)現在位置に堰が移転施工された。
47.岡森堰…安永3年(1774年)完成。
48・力丸ダム
   150立方メートルb/秒を洪水時カット。ただし360万立方bまでで、こ
   れ以上は放流。360万÷150=約2000秒=約5時間で満水となる。こ
   のため満水になると、すれ以降はダムがないのと同じ情況になる。
   工業用水5万立方m/日、北九州市の6万立方m/日、直方市に8000立方m/日
    を送水。
   犬鳴ダム工事に伴い、29戸、農地6ヘクタール、山林原野28ヘクタールが水
    没等となる。
 49・遠賀川全体で主たる堰…1063カ所。11000ヘクタールの潅漑。
 50・犬鳴川の水利権…水道1,4立方メータ/秒。水道2,2立方メータ/秒。
            工業5,7立方メータ/秒。                                            
                               
   
  犬鳴川基礎資料 
遠賀川全体
2000年平成11年頃の数値です。                         
                                                
長さ   遠賀川60、7q  彦山川43、8q  穂波川24、2q                  
                                                
流域面積 遠賀川406平方km  彦山川226平方km 穂波川138平方km                   
                                                
流域人口(全体)                                        
                                                
取水堰47。霞堤19箇所。遠賀川予想洪水量6000。超過確立150年に一回の洪水。     
                                                
  灌漑面積11000ha灌漑用水日量47000取水1063箇所。上水工水取水量17000
                                                
  60箇所 。樋門樋管250箇所。橋梁228本。                       
                                                
                                                
                                                
                                              
                                                
犬鳴川水系のみ 
  長さkm.流域面積平方q                                    
  犬鳴川25、6q。八木山川17.0  山口川11.0  倉久川6.0  有木川5.1 黒丸川4.5   
  犬鳴川160平方km。八木山川  山口川17.8  倉久川    有木川    黒丸川8.4   
                                                
                                                
 犬鳴川・八木山川(合流点より)流域面積 120.3平方キロメートル              
  平均流出係数・                                        
                                                
                                                
                                               
                                                
人口 約 宮田町 21000人   若宮町11000人                               予想洪水量1100。総耕地面積220ha。河川敷採草地5ha、公園緑地1500u。運動場12000
                                               
 宮田町溜池総貯水量1、994、474。若宮町総溜池貯水量2、087、901           
                                                
 宮田町田畑総面積 803ha   宮田町山林総面積1414ha
 若宮町田畑総面積1016ha   若宮町山林総面積5877ha(民有4829ha 国有1048ha)

 










 

犬鳴川  用途別ー農業慣行水利11件取水量4
/秒。農業許可水利5件取水量0、17         上水道取水量  件取水量 /秒。工業用    件取水量    /秒。           表流水16件取水量4/秒。犬鳴ダム 件取水量   /秒。



        

八木山川 用途別−農業慣行水利8件取水量2−秒。農業許可水利なし。                                                           上水道2件取水量1/秒。工業用水2件取水量0、9/秒。農業用水4件0、1/秒      表流水5件取水量0、3/秒。八木山ダム3件1、8/秒。                  1件漁業権昭和28年授与。                           
 
 
 
国土交通省宮田出張所(犬鳴川・宮田出張所)職員人数10名。                  

   以下水利権 (重複あり)完全な資料では有りません。参考程度にして下さい。          
   農業慣行水利権                                       
   犬鳴川30件、八木山川6件、倉久川5件、有木川3件、山口川68件、黒丸川42件。