犬鳴物語6  小方良臣


   
犬鳴物語(その六)
 熊ヶ城くまがじょう
       
        
  物語

 今回は犬鳴のシンボルである犬鳴山(標高五八四メートル)について語ります。実はこの山の頂上に、お城の跡があるのです。戦国時代の宗像氏の端城で、熊ケ城または熊ケ峯城とも言われています。
 熊ケ城は山頂が本丸で、頂部を平らにし、周囲を削って高くしています。西側には自然石を石垣のように築いた痕跡が残っています。城の平面的な区画をくるわといいます。この郭が、本丸を中心にして西南及び東南の三方の尾根上や斜面に造られています。西に下るとすぐ縦長の二の丸と思われる郭に達し、さらにいくつか小さい郭がります。先端の郭から急斜面に下り、下の鞍部に堀切があります。堀切とは尾根伝いに侵攻する敵を防ぐため、尾根を横切るように溝を掘ったものです。これが江戸時代の城になると、回りに水を貯めた掘となります。堀切の外側に土塁がよく残っています。さらに、堀切の上の斜面に、畝状竪堀が七条あります。
 この竪堀は斜面並行に振られた溝で、形が畑の畝に似ているのでその名があります。これは敵兵がこの斜面を登り、やむをえず溝の底を這い上がってきた時、弓矢や鉄砲の的にしやすい為の溝です。とっさに敵兵は、横に移動ができないのです。
 

 江戸時代に書かれた『筑前国続風土記拾遺』に、熊峯古城として、「緑山畑村扇谷の上高峯也。本丸址(東西十一間 南北六間)及二の丸址等残れり。又馬場(山の東の方)沓洗(山の西の麓)など云所有。誰人の構へたる城なるや不詳。又本谷の内に館原(やかたはる)と云処あり。是此城主の居宅の址ならんか。」とあります。
 さらに、山口の毛利家に関する史料で、永禄一二年(一五六九) の項に次のように記されています。
「明る春ほはしらへ御陣替候、若松・芦屋の渡をさせられ、熊か嶺を御越、だんと申所中陣に被成、翌日筑前立花へ近
陣よせられ候」と。毛利勢が立花城を攻めた時に、まず筑前の帆柱に陣を敷き、ここより若松、芦屋を渡り、熊か峯(熊ケ城)を通り、だん(福津市壇の原か)で陣を敷き、立花城に向かっています。
 熊ケ城は宮若市内の山城では、一番高い山に位置しています。戦国時代の山城は、村の背後の里山的な山に造られるのが一般的です。市内でも宮永の宮永城、龍徳の龍ヶ岳城、祇園岳城など、いざ戦になった折に村人が逃げやすい山に造られています。熊ケ城は、村とは隔絶しています。熊ケ城に立つと、今は樹木で見えませんが、西側に立花城が見えていました。郭も立花城側に築かれ、鞍手・糟屋郡境です。
 立花勢の鞍手侵攻を防ぐための城であったので熊ケ城へは犬鳴ダム駐車場より約百メートル行った左の谷より登
 


リ、色テープ伝いに行きます。尾根上から戦国期の通路と思われる尾根筋を行き、兵端基地と思われる平地を見ながら、休みなしで約一時間です。
 皆さんは宮若市内に山城が約五〇基あるというと驚かれますか。笠木山城(千石)や龍ヶ岳城などすばらしい城が身近にあります。
 「兵(つわもの)たちの夢のあと」を感じられたら幸いです。